夏の終わり
葉leaf
吹く風に涼しさが混じり、蝉の死骸は夥しく落ちた。夏はまさに終わろうとしていた。だが今年の夏はただの夏ではなかった。私は勤めている会社を辞めるかどうかの瀬戸際に立たされ、自らあれこれ相談や交渉に赴いたり、上司たちに動いていただいたりと何かとせわしく、気持ちの落ち着く暇がなかった。そして夏が終わる頃になって、ようやく首がつながることが確定したのだった。夏の終わりは宴の終わりだった。自然界の宴の終わりでもあれば、私のトラブルという宴の終わりでもあった。
私の背後で一つの扉が閉まっていった。この扉は二つの側面を兼ね備えている。見た目は太古の深く苔むした自然と一体となったような扉である。だがそれは、一方では、明るく近代的で様々な電線が仕込まれている機能的な扉である。またこの扉は、季節の終わりとともに、時間に忠実に従って閉じていく扉であるが、他方では、合理的な議論や規則、手続きに従って閉じていく扉でもある。この扉は重く閉ざされてもはや二度と開かない。
私は扉が閉まった後の静寂の中にたたずんでいる。季節の推移と自らの社会的な推移とはもはや区別がつかない。自然と人間と社会とが区別されることなく一つの扉でもって区切られていくということ。その前提をなしている、自然と人間と社会との深い同質性が私にめまいをもたらし、私は夏の最奥に達した。自然も人間も社会も、たった一つの流れとして、大きな巡りの中でせわしなく計算されている。