あの頃はもう…
イナエ

戦火を避けて祖父の家に疎開していたぼくの
ノートや教科書と一緒に
街にあった家が焼け落ちた翌日 
父は硝煙クサイ鉄の筒を持ち帰ったが
それ以来 街の家のことは口にしなかった

道を挟んだ隣のTさんの家に
同じ街から疎開していたコウちゃんがいた
学校は違ったけれど同じ学年で
平和になった田舎で
ぼくらは近所の少年たちと
野球に明け暮れしていたが
その歳も終わりに近づいて
コウちゃんは街へ戻った

コウちゃんとは
老舗の菓子屋だった
少年だったぼくは 
一度だけその菓子屋を訪問したけれど
コウちゃんは街の少年達と出かけていて
会うことは出来なかった

退職したぼくは その日
地元のウォーキン大会に参加して
昔住んでいた街を歩いていた
少年の頃の記憶とは
別の都会になってしまった町並みで
あの有名な菓子屋を見つけた

店の前には数人の行列が出来ていた
ぼくは列の後ろに並んだ
店先には菓子を渡している老人が居た

コウちゃんだ
少年のまま老いたコウちゃんだ
懐かしさのあまりぼくは名乗った
だがコウちゃんは
初めて接する客のように愛想良く挨拶した
けれども
ぼくの持ち出す田舎のことには
首を振るばかりだった
コウちゃんはお菓子の包みを渡しながら
申し訳なさそうにぽつんと言った
「Tさんは元気ですか」


自由詩 あの頃はもう… Copyright イナエ 2015-08-13 16:06:56
notebook Home