フロベールのボヴァリー夫人のように、本を読みすぎて、実生活もまた作り物だ――あるいは冗談、作り話、嘘だ――と信じてしまう人物も現れる。十九世紀においては、才能ある多くの人間が自殺を遂げたが、それは、現実と夢が交錯し、たがいの輪郭を曖昧にしてしまうような両義的世界を生きていたからだ。このためド・クインシーやコールリッジは阿片に、ポーはアルコールに、ベドーズは自殺へと追いやられた。ショーペンハウアーはこのジレンマの本質をとらえて、『意志と表象としての世界』というタイトル自体にそのことを表現した。……
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十九世紀のヨーロッパの社会状況と現在を見比べることで何か得られるものがないだろうか。活版印刷はやはりかなり画期的な発明でそれによって本が多くの人の読めるところとなり、小説が登場するころにはここに引用したような状況が表れてきていた。“意志と表象”という言葉は我々にしてみると何を意味するのか捉えるのが少し難しい。と、ここでそのショーペンハウアーに影響を受けた哲学者ニーチェの文もたどってみよう。
真理が仮象よりも価値が多いなどということは、もはや一つの道徳的先入見である。それどころか、それはおよそ世界に存在する最も拙劣な証明に基づくものなのだ。とにかく次の一事だけは是非とも容認してもらいたい。すなわち背景的な評価と仮象性に基づかずには、全く生というものは成り立たない。そして、大概の哲学者たちの有徳ぶった感激と愚昧によって、「仮象的世界」を全く棄て去ってしまうとしたら――さて、諸君にそれができるとしてのことだが――、そうすればその際、少なくとも諸君の「真理」からはもはや何も残らないであろう!……
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部分的な引用で文意をくみ取るのは難しいかもしれないが、この文中の“真理”を“リアル”と、“仮象”を“ネット”と置き換えて読んでみてほしい。意味が通じはしないだろうか。二十一世紀を生きる我々も夢と現実がたがいの輪郭を曖昧にする両義的世界をまた、生きているのだ。十九世紀ヨーロッパの人々は浮かれていたかもしれないが、その後何が起こったかを忘れないでほしい。歴史は繰り返すという、太陽の下に新しきものなしともいう。何度も言いたいが現代がまっさらな教訓にすべき過去を何も持たない新たな時代だ、などと思わないことだ。歴史を紐解けば符合するポイントはそこここにあり、学べることはいくらでもあるはずだから。