イノセントのありかた
ホロウ・シカエルボク
名も無い瓦礫の路は
昔話をしたがっているように見えた
激しい雨のあとの
過呼吸のような陽射し
喉元を滑り落ちる汗を
呪いながら歩を進める
息すらかすれている
午後は容赦が無い
誰かに殺されたらしい野良犬の死骸が骨になって
小さなバケツのように肋骨を晒している
鮮やかな白のまま凍てついた身体の上を
数匹の蝿が学術調査のようにうろついている
おれの足音に彼らは動きを止め
窺うような間を取って飛び立っていく
その道の奥は行き止まりで
解体途中で放置されたのか、あるいは
放置されて崩壊したのかというような
小さな家屋跡があり
見開かれた目のような丸い下水溝の蓋の上で
一匹の汚れた黒猫がオブジェのように座っておれと向かい合っていた
その猫は怯えず
昂ぶらず
拒まなかったが
許しもしないように見えた
そんな態度で、そこにずっと座っていた
ここにわたしの暮らしがあった、そんなことを
そこにそうしていることで語ろうとしているように見えた―生暖かい瓦礫のようだった
おれは足を踏み入れた、足もとで崩れ落ちた屋根や壁の材料がガラガラと鈍く鳴った
そして猫の邪魔をしない程度の隣に腰を下ろして
猫と同じように生きた通りへ続く方を眺めてみた
猫はちらりとこちらを見て、「もの好きだな」というように首を軽く回し
それから元の方に向き直った
そこから眺める生きている通りは
井戸の底で太陽を待ち続ける物語を思い起こさせた
そこには必ず太陽があり
黒猫と二人だったというのに
それは井戸のようなお終いだった
「井戸のような」と言うほか無い場所だった
「井戸のようだ」と、おれは口に出してみた
ム、と黒猫は低く、短く唸った
ポケットの携帯が鳴り始めたが、猫は身動ぎもしなかった
そうしたことをすべて知っているように見えた、おれは電話に出た
「部屋の準備が出来ました」と、今夜世話になるホテルのフロントの男が告げた
帰らなくちゃ、とおれはまた猫に話しかけた
猫はすこし目を細めただけでこちらを見もしなかったが、おれが立ち上がったときに一度おれの爪先に鼻をつけた
お前はいつまでここに居るんだ、とおれは訊いてみた
さあ、というように猫は首をかしげた
「たぶん死ぬまでさ」
本当はそう言うつもりだったみたいに見えた
ホテルの部屋は快適だった
関係性の要らない気楽さがあった
おれはベッドに腰を下ろし
鏡の中の自分を見つめた
老け込んでいて、疲れ過ぎていた
それでも
おれは井戸の外に居て
どこかに移動し続けている
カーテンの隙間から見える空は
もうすぐ
暮れようとしている