さくらんぼ泥棒
りゅうのあくび
隣の病棟から切手のない
自分宛ての手紙が
一通だけ病室の枕元に
精神科医から届いている
ふくらんだ封筒には
誰が入れたのか
さくらんぼが
ひと房入れてあって
何とか父を救いたいと云う手紙の
返事だった
記憶の病気であれば
治療は任せて欲しいと
記してある
桜の花びらが散ってから
まだ春の風が強い
とても永い雨の
季節がやってくるのは
まだ先の或る日に
突然倒れて治療するため
入院を決めた
病室には年上で
親友と同じ名前の
患者がいて女友達となる
ちょうど精神科の
こころある勤務医に
父を何とか
助けてほしいということを
伝える必要があった
きっと来年の冬
チョコレートの季節になれば
どちらからでも
素敵な贈り物を
上げることが出来るよと
その友達はとても親切に
教えてくれた
随分と昔に
母には先立たれてしまい
父と一人娘が
別の病気になり
それっきり
ふたりきりの家族が
離れて暮らすのも初めてだった
独りになってしまった父を
何とか救ってほしい
一途な想いがあった
記憶の病である父に
一人しかいない娘のことを
忘れて欲しくはなかった
手紙が届いても返事が来ない
とても心配だった
病院で郵便を管理している
年下の青年に
あるお願いをした
自宅に届く
郵便物にする予定だった
手紙を父に手渡しで送って欲しい
そして返事が出来るかどうかを
見てきて欲しい
事情を伝えて
お礼を済ませると
少し元気になった
病室の女友達に再び
話しに行くことにする
その女友達は
危篤の状態であった
何とか一命は取り留めたと
背の高い看護師から聴いて
手術の成功を祈っているあいだ
病院に電話が
郵便室の青年から架かって来た
お父さんは
介護師さんが
面倒を見ていますが
意識ははっきりとしています
返事もその介護師さんが
代筆してくれました
今は元気です
との連絡だった
青年に宛て
さくらんぼ一房を封筒に
そっと入れて感謝の手紙を送る
女友達からは
手術がうまくいって
快気したという連絡が入る
病院の桜は
小さくて紅い
ふた粒で一房のさくらんぼを
たくさんぶら下げながら
今でも記憶のなかで
とても甘酸っぱい匂いがする
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