和解
吉岡ペペロ

木漏れ日が飽和していた。梅雨の晴れ間の日差しを歩いていた。
髪の毛やスーツは熱をおびてゆくのに、からだの芯というか、心臓というか、食道あたりというか、からだのどこかが冷えているような気がして息切れしていた。貧血とはこういうことを言うのだろうか。
ひかる歩道をとぼとぼとふわふわと進んでゆく。しばらくゆくとこの時間帯長蛇の列をレジにつくるコンビニがあらわれる。
列ばないと始まらないから弁当をとって列の最後尾に立った。まえに列んだ女の子が足首をぐにゃぐにゃさせて暇を持て余している。それを見つめていた、というよりいまの息切れした感じを見つめていた。

ある日ぼくは彼に無視された。彼と仲直りするようなことはついになかった。
彼は当時ぼくが通っていた施設の仲間のひとりだった。突然そんなことをされてぼくは動揺した。
ぼくが仲間といると彼はぼくらの輪に加わらなかった。初めて無視された日、ぼくはいぶかしみもしたがホッともしていた。ぼくは彼のことが好きではなかった。一緒にいるととても疲れた。
電車に乗ってて彼に、「死ぬなよ」と言われたことがあった。
彼から見るとぼくは人生に絶望しているように映っていたのだろう。それとも死相でも出ていたのだろうか。
「ふざけんなよ、なにわけわからんこと言うとんねん」
ぼくはあまりに唐突な彼の発言にキレた。
あれが原因か。でもあれは何ヶ月もまえのことだった。
誰の目にも明らかになるくらい彼はぼくを無視しつづけた。
ほかの仲間は静かに気づいていた。彼は理由を仲間に告げていたのだろうか。ぼくから仲間にそんなみじめな質問はできなかった。
先生たちも気づいていたにちがいない。ぼくには好きな先生がいた。だから先生にこのことをどう思われてしまっているのか不安で心配だった。
テキスト10ページ分が範囲の英単語のテストを受けながら、ぼくはそとをたまにみやっていた。
テニスコートと施設の建物とテラスが金網のむこうに見えた。テラスにはソファが野ざらしになっていた。そこには彼が座っていた。
この授業が終わったらどこに行こうか。そう考えると胸が痺れて短いため息がでた。
教室には5人しかいなかった。先生がすぐ採点してくれてぼくは満点だった。藁半紙の答案に暗色の赤いボールペンでたくさんの丸とVERYGOOD!!の文字があった。
ぼくはこの先生のことが好きだった。ぼくは童貞だった。そして童貞にありがちな正義感にも似た恋愛感情をぼくは先生にいだいていた。
ぼくはこんなめんどくさいことをする彼を恨んだ。ただぼくのことを好きではないだけでいいじゃないか。なにも無視することでみんなにアピールしなくてもいいじゃないか。
チョコレートサンデーが大好きだとかアスピリンが心臓に悪いだとかの内容の英語の長文をテキストにして、その日の授業は進められていた。
そとをみやると校庭みたいなテニスコートがしんとしていた。ソファに彼がいなかった。テラスのすぐよこには枇杷のオレンジがたわわに実っていた。
彼はテニスがうまかった。仲間にはぼくを含めてうまい奴はいなかった。だからだろうか彼はここではテニスの腕をあまり披露しなかった。彼は気遣いのできるいい奴だった。ぼくよりもずっと人望があった。
先生の髪の毛に天使の輪がかかっていた。先生とおなじ英語の長文を見ているだけでぼくは充足していた。先生も満ち足りた微笑みをテキストに落としていた。
とつぜん空気がポンと弾けた。ラケットがボールを打つ音だ。彼だろうかと思ってそとを見たら彼ではなかった。金網のむこうで見かけない男がサーブの練習をしていた。
猫背から繰り出されるサーブはひとりで打っているわりになんだか臨場感があった。運動神経がとつぜんテニスコートにあらわれたようだった。

みっつのレジにそれぞれ店員がいるのに列がなかなか進まなかった。
ぼくは昔のことを思い出していた。ちょうどこんな季節だった。よこを見ると枇杷が入ったちいさなカップがあった。ぼくはそれを手にとった。
まえの女の子が首を伸ばしてレジのほうをのぞいていた。いつも以上に列は遅々として進まない。新人のアルバイトでもいれたのだろうか。
貧血気味でもあったからぼくもいらいらしてきた。貴重な昼休みの時間が消えてゆく。どこからかブランコを漕ぐ音が聞こえてきた。耳鳴りにちがいなかった。ぼくはカップの枇杷を見つめ、それからすぼめた口でわざとらしいため息を吐いた。

英語の授業が終わった。ぼくはテニスコートに直行した。
「うまいやん」と猫背の男に声をかけた。男はボールを持った手を猫みたいにしてちいさくぼくに振ってまたひとつサーブをした。ボールがネットの縁に当たってぼくの方に転がってきた。
「試合しよか」そう言うと男はからだをゆるめてニヤッと笑った。
ボールを打ち合うのは気恥ずかしかった。ぼくがたいしてうまくもないのをはやく伝えてしまいたかった。でも打ち合わなければ男に申し訳ないような気がした。
汗だくになった。毎日誰かとテニスをしていたから下手は下手なりに試合になっていた。

みんな大人だから黙って列に列んでいた。レジを見つめていると店員の要領が悪いのがよくわかった。
まえの女の子がメールを打っている。とくに興味もなかったが「お誕生日おめでとう」という文字が見えた。
ぼくのうしろに列ぶひとも増えていた。ドリンクコーナーにひとだかりが出来ていた。
こんなに待たされたことは今までにないような気がする。まえの女の子が足首を不自然なかたちに曲げたままもう動かすのをやめていた。

試合は盛り上がって数人の観客までできていた。そのなかにはもちろん彼はいなかったが、先生がいた。たまたま来ていた施設の持ち主もいた。
トータルスコアはぼくと男しか把握していないはずなのに、ぼくがこのゲームでいよいよ負けるとなったとき観客が名前を呼んで応援してくれた。
いいところを見せようとして思いっ切り打ち込んだサーブでダブルフォルトを犯しぼくは負けた。
施設の持ち主が、「うまくなったなあ」と感心してくれた。そして、「この枇杷の実熟してもったいないから、勝手に食べてくれてええで」と言ってくれた。
ぼくは男とふたりで枇杷の実を摘んだ。水をためたバケツにオレンジ色の実をどんどん入れていった。枇杷は間近で見ると白っぽかった。ぼくらの試合に刺激を受けたのかさっきまで観客だった仲間がダブルスで試合を始めていた。試合にはわき目もふらず枇杷を摘んでいった。枇杷の木が色を濃くした葉だけになってしまった。
ぼくらは葡萄を食べるような感覚で夢中になって枇杷を喰らった。ほんのり柑橘系のやわらかい香りがテラスに漂った。皮はコンクリートのうえに無造作に棄てた。ぼくらの指や鼻や口のまわりは汁けでぐしゅぐしゅになっていた。
食べ尽くした頃には新入りの猫背の男の経歴やらぼくらの経歴は、すっかり交換されていた。

まえの女の子がついにレジに辿り着きつぎはぼくの番だった。みっつのレジのうちどこが空いてもすぐに行けるように、ぼくは相手のサーブを待つテニスプレイヤーのように小刻みに重心移動をしていた。
ぼくの番が来た。「あたためますか」と聞かれて「はい」と答える。「袋はいっしょでいいですか」と聞かれて「カップのフルーツはわけて」と答える。店員が弁当をあたためにレンジのほうにゆく。それから枇杷の入ったカップを袋にいれ、弁当をいれる袋を弁当のかたちにして用意する。そんなことしている場合ではないはずだ。弁当をあたためている間につぎのお客さんのレジをうつべきだ。彼のすべてがとろかった。こんな医者に心臓手術をされたらタイムオーバーで昇天してしまうだろう。
コンビニを出て飽和したひかりのなかを会社まで歩いた。梅雨の晴れ間の日差しがぼくの髪の毛やスーツに熱をあたえていた。
なんでこんな大昔の話を思い出したのだろう。何気ないいつもの昼休みだった。昨日ともなんの代わり映えもしない昼休みだった。
枇杷のせいだろうか。いやそれは逆だ。季節のせいだろうか。貧血気味のせいだろうか。
貧血が去っているような気がした。
鼻から息を吸った。さっきの貧血をからだのなかに探しながら息を吐いた。ずいぶん長い息だった。こんなのは前からだと思った。いつもとおんなじ不安や心配だと思った。それにとらわれているのは良くないと思った。コンビニの袋がちりちりと言っていた。
職場の席につくまえぼくはトイレに寄った。トイレットペーパーをかなり多めに巻き取って、いまから食べる枇杷に備えた。
弁当よりさきにまず枇杷を食べよう。昼飯をフルーツから食べるなんてちょっと素敵だ。なんといっても枇杷は弁当より高かった。
カップをあけたとき音がした。空気がポンと弾けて、ぼくはなにものかとようやく和解したような気がした。





自由詩 和解 Copyright 吉岡ペペロ 2015-06-29 21:22:36
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