巨大な羽ばたきのビート
ホロウ・シカエルボク









鳥の羽ばたく音が聞こえる。部屋の中で。その鳥はとても大きく、翼を広げた影には戦闘機の機影のような威圧感さえ感じさせる。空気を鉄の塊にして叩きつけるような、猛烈な羽ばたき。それがなぜここで行われているのかおれにはさっぱり理解出来ない。ただ気付いたらそいつはここに居て、壁を振動させるほどの羽ばたきを繰り返している。「よう」とおれは話しかける。どこに向けて話しかけていいのか判らない。というのも、だらだらと先に書いた像はおれの頭の中でそいつがそういう風に具現化されているというだけの話で、実際のところ、そいつがどういうものなのかはおれにもまるで判ってはいないのだ。つまり、それに関しておれに理解出来ることはひとつもない。まるでない。そういうことだ。おれは時計に目をやる。そいつの存在を認識してからというもの、それまで何をしていたのかという記憶がすっかりなくなってしまった。現在の時刻を確認することは出来る。日付変更線まであと二時間はある。何の変哲もない、ごく普通の夜だ。だけど、その中で展開されてきたはずのおれの暮らしの痕跡はまるで見当たらない。おれは困惑しているが明らかに現象はまだ途中経過であり、判断をするのはすべてが終わってからでも遅くはないだろうと考えている。そう―たぶん、それで大丈夫だろう、いまここにあるものの力は確かに巨大なものだけれど、それがたとえばおれの命などをどうこうするつもりなんてないだろう。精神のなすものなのか、それともなにかしら外的要因があるものなのかは判らないけれど、確かにこれはおれの存在を潰すようなものではないはずだ。そういう類のものならおれはきっとそう気付くだろう。おれにはいまのところ何をするつもりもなかった。なにせ、事態はまるで動いてはいないのだ。巨大な鳥の羽ばたきのような強烈なイメージをもった何か。こいつがなにかしらのアクションを起こすまでは考えを先に進めることなど出来そうもない。おれは時計から目を離して、そいつがいるらしい中空をぼんやりと眺めた。そして電灯の傘が汚れているな、と思った。鳥はそのあいだも羽ばたいていて、部屋はそいつの強力な筋肉によって衝突事故のように振動していた。おれは窓の外を見たが、誰も慌てては居ないようだった。振動してはいるが、地震ではないのだ。そのことがはっきりと理解出来た。この鳥の羽ばたきのせいなのだ。現実には存在しない羽ばたきを感じながらじっと眺めていると、やがて身体が舞い上げられた落ち葉のように平衡感覚をなくすのが判った。おれはぼんやりと見慣れた空間を漂った。時々ピンボールがフラッパーに弾かれて唐突に向きを変えるみたいにひっくり返ったり横向きになったりした。それはよくある例えの、大海の中の小船のような状態だった。そんなことになってもおれは何もアクションを起こそうなんてことは考えなかった。現象はやはり途中経過であり、こうしていることにもきっと理由があるのだろう、と考えてなすがままで居た。不思議なものだな、とおれは考える。いままでに何度もこんなような出来事は訪れた。だけどそのたびにおれは生還して、おそらくは人生の折り返し地点であろうポイントも通り過ぎ―生きている。運命を理解することは難しい。とにかくそこには意味など存在していないのだから。おまえなど阿呆だ。人生はおれに指を突きつけて笑い声を立てる。忌々しい笑い声だ。思わず鼓膜に鉛筆か何かを突き刺そうかと考えるくらいだ。鳥の羽ばたきと笑い声が相まって、小さなおれの住処の現象は破裂しそうになる。そこには激しいうねりが在り、激しい圧迫があり、激しい虚無がある。人生そのものには意味などない。だから、目印を結びつけるようにそこに何らかの意味をもたせなければならないのだ。いや―理由や意味をもたせるだけの何かしらをそこに設定しなければならない、そういうことだ。意味をもたずに生きることは容易い。すべての判断を一番簡単な選択肢に委ねればいい。おれはそういう生き方を拒否した。そして、一見激しいが身体を揺らすことすらない巨大なトルネードの中心から距離をとり、これまで塗り潰してきた地点を見下ろすことの出来る高みを目指した。睡魔が襲ってくる。でも眠る理由が見当たらない。いつだってそういうものは見当たらない。そして夜はおれに満足な眠りを与えてはくれない。おれは時々目を閉じることすら忘れて、ぼんやりと羽ばたきを聞いている。業務用トマトソースの巨大な缶の中では、進化を諦めたネズミたちが腐敗を始めている。それはイメージに過ぎない。だけど、混じりっけのない純度100%のイメージは、本来そこに収まるべきピースだけでは足りないくらいのフィールドを求める。人生には意味などない。だけど、だから意味を、なんてことではなくて、だからこそ出来るトッピングが在るということに気付かなければならない。やり直しの効くカンバスのようなものだ。色は無限にある。悩む前にすべての色のキャップを外して、片っ端からパレットに押し出してみることだ。鳥は羽ばたきを続けている。おれはもう少しそいつがどうするつもりなのか静観してみるつもりだ。








自由詩 巨大な羽ばたきのビート Copyright ホロウ・シカエルボク 2015-06-08 23:16:36
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