朦朧たる旋律、そして簡略化された天井の構図
ホロウ・シカエルボク
眠りでもない、目覚めでもない、そんな状態がもう幾時間か続いていて、その間何をするでもなかった、ただ座椅子に背をもたせて脚を投げ出し、わずかに上を向いて壁と天井の継目のところを眺めていた、それは徹底的に簡略化された世界の構成だった、点と線によって展開される広がりの末端だった―テレビもラジカセも沈黙していた、部屋にある限りの発音するものは、すべて…携帯電話のアラームもオフに設定されていた、すべてがオフに設定されていた、それなのに頭の中では音楽とも呼べぬような音楽がずっと流れていた、強引にそのニュアンスを伝えてみるとするならば、「メタル・マシーン・ミュージック」にピンク・フロイドがバッキングをつけたようなものだった、ゲスト・ミュージシャンはジョン・ゾーンで、「ヤンキース」で使っていたような手法で演奏していた―これは、あくまで強引に伝えてみようとしたというだけのものだ、試みとしては面白いと思うがこれが正しいのかどうかというと正直なところ首を捻るばかりだ、だが、考えうるかぎりならおそらくこの例えが一番近い…考えうるかぎりでは、一番―それにもしこんなものを完璧に具現化出来るのなら、いつかの時代のどこかの新進気鋭のアーティストがとっくにやっているに違いない、これは賭けてもいいけれど、無意識にこんなサウンドを耳にしにしているのは決して俺だけじゃない、これを知ってる誰かが必ずどこかに居るはずさ―時刻は21時を少し回ったところで、いつもは賑やかな表通りも今夜はなぜか死んだように静まり返っている、気付かぬうちに流れる血のような大人しい雨が降り続いている、壁と天井の継目のところをずっと眺めていたのは、そうしているのが一番気楽だったからだ
脳味噌の片隅にながいこと放ったらかしにされていたそこでは最古の通信機器が唐突に通電し、どこかの研究所からその道の権威を連れてこないといけないような言語を羅列し始める、それはきっと簡単に言うなら混沌というものに違いないだろうが、そこには同時に奇妙な興奮がある、それは確かなことだ…それは最古のものでありながら最新の息吹であり、それが何であるかなんてことは実際のところあまり問題ではない、羅列される言葉に意味を求めてはいけない、ある意味ですべての羅列は、本来言語が持つそれぞれの意味をいったん解体するための手の込んだ作業なのだから―そこからひとつの単語だけをピック・アップするような真似は愚かしい、それは様々な草花が植えられた花壇からひとつの花だけを抜き取ってその価値を値踏みするようなものだ…そこにあるのは草花ではなく、「花壇」という構成によって表現されたひとつの意志だからだ―もっとも、種を啄むカラスのようにそこから欲しいものだけを取っていく連中は呆れるくらいたくさん居るけれど…きっと彼らにとって真実とは、部屋の中にあるテレビだけとか、窓に吊るされたカーテンの左側だけとか、そういうものに過ぎないのだろう、語ろうと思えば無限に語れそうなほどそこには様々なものが鎮座しているのに、たったひとつのものしか目に入らないのだ
羅列、だからこそ羅列を繰り返す、もちろん自分だって脳味噌にあるもののすべてを語りつくすことなど出来はしない、ただ出来るかぎりの物事をそこにぶち込むことで、より克明なぼんやりとした真実を描き出そうとしているのだ(それは具現化出来る階層の話ではない、という意味だ)、たったひとつの真実を綺麗なガラスケースに入れて意味ありげに陳列するのは確かに見栄えがいいし、それはフォーカスが限定されているため確かに迷いがない、でもそれは象に例えるなら、鼻の長さについて話しているだけで、丸い巨大な頭骨や、羽を思わせる耳や、硬い皮膚に覆われた巨大な体躯や、丸太を地面に押し付けているような脚や、ろくに存在感のない尻尾のことについては語ることはないのだ―ただひとつの真実を話そうと躍起になってしまうときは、鼻の長さだけを話して完結してしまうのが関の山だ、もちろんそう、俺は象について語るために羅列しているのではない、俺が象について語る気があるかどうかはまた別の話だ―釈然としないエンディングを迎える物語が昔から好きだった。ハッピーエンドはハナから嘘くさくて嫌いだった、そこに信じるものはなにもない気がした、それはあまりにも無責任だった、無責任な子供に無責任な夢を見せるための代物だった、とはいえ、バッドエンドが好きだったかというとそうでもなかった、いってみれば、物語的にきちんと完結させるようなやり方が好きではなかったのだ―もちろん、そういったものに食いつく連中がたくさん居ることもよく判ってはいるけれど―物語のリアリティというのはある側面ではハッピーだし、ある側面ではバッドだ、というところなのだ、解体出来て、それを構成する部品をひとつひとつ調べてみたくなるような、そんなものがリアリティと呼べるのだと思う、写真に例えてみるならこうだ、そこに在るものを写そうとした写真と、そこにないものを写そうとした写真には明らかな違いがあるだろう?
ただ座椅子に背をもたせて脚を投げ出し、わずかに上を向いて壁と天井の継目を眺めている、時として世界は愕然とするくらい単調に出来ているし、そんなものの恩恵を受けることもある―そんな時俺は、満面の笑みを浮かべて舌打ちをし、唾を吐くのだ、シンプルはカオスの結果としてある、そのことを俺は知っているからだ。