蓑虫
島中 充

妻はゆっくり狂い始めた。階下から甲高い声で私を呼ぶのだ。
「アナタァー」 
また始まる、始まってしまった。

開け放たれた窓から、花冷えの寒気がなだれ込み、投げ出された掃除機の横で、妻は床の上にスフィンクスのように、両手両膝を着いて、目を据え、開かれた昆虫図鑑を一心に睨んでいた。図鑑は私が詩を書くために開いたままほっておいたものだ。
「アタシ、蓑虫じゃないわ。蓑虫なんていや、大嫌い。」
蓑虫の雌は一生を蓑の中で暮らす。雄のように蛾に成ることもなく、蓑の中で雄の蛾を迎い入れ交尾し、産卵し、小さく干からびて、枝にぶら下がっている蓑からポトリと地に落ちて、蓑虫のまま死んでいく。
「あなたの世話をし、子供を育て、台所に閉じこもって、干からびて死んでいくのはいや。他所におんながいるんでしょ。アタシを抱かないのは、他所におんながいるからでしょ。」
妻はひと月続いている詰問をまた始めた。
「ほらごらん。」
私は昆虫図鑑の蓑から半身を出して、湿った土の上を這っている蓑虫を指さし「六十を過ぎ、私の性器はこの蓑虫のように萎えているよ。あなたを抱いても、あなたの性器のまわりを這う半身を出している蓑虫になるだけだよ。」
私は懸命に行為のできないことを説明するのだった。
「違うのよ、ただ優しく抱いて欲しいだけなの。」と妻は言った。
私は妻の肩を抱き、優しく抱き起し
「さあー行こう、蓑から出よう、散歩に行こう」と誘った。

山をきりくずして作られた住宅地をぬけるとすぐに斎場が在り,斎場から山頂に向かって、満開の桜の広い公園墓地があった。桜の木の下を、手をつないで、私たちは墓石に散っていく花びらを見ながら、ゆっくりゆっくり歩いた。あちこちの木陰に潜んで、暗がりから私たちをじっと見つめるものたちもいる。ここは捨て犬のメッカだった。不意に交尾する二匹の犬が木陰から私たちの眼前に現れた。犬たちは横目で私たちを睨んでいる。仲間の犬も取り囲むように現れて、私たちに吠え始めた。妻は私の腕にしがみつき、私はぎょっとして妻を守りながら、踝をかえし、一目散に石畳の坂道を下りて行った。妻の肩を抱いて犬の鳴き声に怯えながら駆け足に下りて行った。
「あなたをこうしてずっと守ってきたんだ。」と私は強がった。
しかし、交尾する二匹の犬の有様が頭から離れなかった。犬の交わるペニスのなまなましい赤が、私の目に焼き付いていた。

「アナタァー」
階下からまたあの声がした。
私は階段の上から身を乗り出して覗き込んだ。妻は飼い犬を仰向けにし、腹を撫でていた。仰向けのまま飼い犬は嬉しそうに尻尾を振っていた。妻はふぐりを掴み、しきりに赤いペニスを出そうとしている。妻の目にもあの赤が焼き付いているのだと私は思った。仰向けの姿勢では、犬はペニスを出すことは出来ない。妻はそのことを知らないのだ。すがりつくような目で、大きな目で、
「どうしてなの、どうして出ないの。」
妻は私を見上げながら言った。答えないでいると、妻は急に目の色を変え、釣り上げた目で睨みつけた。
また始まる。始まってしまった。
「他所におんながいるんでしょ。白状なさい」


散文(批評随筆小説等) 蓑虫 Copyright 島中 充 2015-05-26 18:54:52
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