雑記(メリーゴーランドの二人)
またたび八寸

日常のこと、妻の思考

僕がPCの前に座ってこうして何かを書いている時、
大体妻は横のソファで読書をしている。妻とは本の
趣味が壊滅的に合わないので互いの趣向を批判する
ことはないけれど、読み終わる毎にあらすじや感想
を言い合ったりして、互いの脳の中に何が注ぎ込ま
れているのか、少しはわかるようにしている。
ただ僕は自分の書いているものを妻に見せたことは
一度もない。(もしかしたら、妻は読んだことはあ
るかもしれないがそれに関して僕に言及したことは
ない)何故見せないのかというと、読んでほしいと
思ったことがないからだ。
自分の作品を妻が理解できないと思っているのでは
なく、そういう欲求がただただ起きないのだ。妻は
自分にとってとても良き存在だと思っているし、妻
にとって自分もそうあるべきだと努力しているが、
僕らは何というかメリーゴーランドの固定された馬
と馬車のように、一定の距離を近づいたりも離れた
りもせず、他者と他者のままでいられることに安心
を見出す関係なのだと思う。例えば妻が実はこっそ
りどこかで絵を描いていたとしても、僕はそれを見
たいとは感じても、妻から差し出さなければこちら
から要求することはないだろう。
こんな文章を書いている最中でも、隣のソファで妻
は何かを読み、頭の中で素晴らしい景色が繰り広げ
られているのなら、それが僕にとっては面白くそし
て幸福なのだと思う。妻の前屈みになった背中が、
ページをめくる音が、物理的な動作や音として僕に
作用し、メリーゴーランドはまわり、僕の出すキー
ボードの雑音が妻の髪を揺らしている。そのように
して僕は妻と日常を営んでいる。


詩について

バックパックを背負って一人旅に出るのではなく、
旅のラゴスや路上を読むことにした僕は他者の抽
出したものを与えてもらう方が、自分で見つけだ
すよりも遥かに効果的で信頼できる、世界の発見
の方法だと思っている。時々はそれを言葉にして 
みて、楽しんではいるが、自分にとっての発見と
は要約すると〈生きていくのに重要なものは美で
あり、それは私にとっては諦観である〉なので、
結果として、詩についても輪廻や悲観論が表れて
いる。多分僕は溢れんばかりの幸福を享受するよ
りは、ささやかな苦悩に悶える方が好みなのだろ
う。持っていたものを失うことや、傷つくことに
耐えられない薄弱な精神が原因なのだろう。
勿論幸福であるという状態には問題はないので、
なるべく小さなものを拾っていくように努力はし
ている。僕にとっては詩を書くこともその一部な
のだ、ささいで、ささやかなもの。


眠ること

毎日一定時間、気を失っていることに昔は耐えら
れなかったが今は随分慣れてきた。とは言っても
慣れただけなので、睡眠時間は一般的な成人より
少ないと思う。そのせいか、僕はあまり夢をみた
ことがない。中学生の時に二、三回みた程度なの
で、実は夢をみることに憧れがある。妻に聞くと
意外に職場や私との生活に関する夢が多く、SF的
なものや非現実的の夢は殆どないという。同僚は
大体「知らない人に追いかけられている」「水関
係」「職場で追い込まれている」などと、不条理
で恐怖感のあるものが多いようで、寧ろみない方
がよいのではないかと思うものばかりだ。しかし
眠ることが強制的にブレードランナーの主人公に
なることなら、よく睡眠恐怖症にならないでいら
れるのか、そちらの方がすごい気もしてくる。
僕はもし夢をみれるのなら、草原や空や森の中で
動物たちに囲まれて眠る夢をみたいと思う。妻は
意外ねぇ、川端康成の少女小説みたいなのね、と
言うのだけれど、世界を内包する世界、僕はその
眠っている夢の中でも、同じどこかの森で眠る夢
をみていたい。それは何というかもう、永遠のよ
うな、無限のような、瞬間、なんだな。


散文(批評随筆小説等) 雑記(メリーゴーランドの二人) Copyright またたび八寸 2015-05-01 00:08:17
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