あしたのりんご
たま
テーブルの上に、あした買ってきたりんごを置いてあると言う。
もちろん、そんなもの私には見えない。母だけが見ることのできるりんごだった。
今朝も雨が降っていた。桜の季節はいつも雨に邪魔される。と言っても、花見は好きじゃなかった。久しぶりの休日だし、すべては雨のせいにして春眠を味わう。たまには御褒美がほしい発育不良の大人だったから。
九時すぎに目覚めた。
「かあさん、おはよう」
薄暗いリビングの灯りも点けないで、母は窓辺のテーブルに腰かけていた。
「……圭子、まだいたの?」
「今日は休みなの。ね、ゆうべ言わなかった?」
「ううん、聴かなかったわよ」
頑固なひとは痴呆になりやすいってほんとうだろうか。灯りを点けて母の顔を覗くと、うれしそうに目を細めて言った。
「ねぇ、圭子、今日はいい香りがするでしょう?」
「え、なんの香り?」
「あした買ってきたりんご。甘いわよ、きっと」
「かあさん……そんなのどこで買ってきたの?」
「ほら、あそこ。林果物店……」
「……」
林果物店は私が幼いころにすごした街にあって、果物の好きだった父のために母が通ったお店だった。いまはもうその街を訪ねても林果物店は見つからない。
久しぶりに母と食べるお昼ごはんは、私の遅い朝食になった。雨はもう止んでいる。午後は晴れそうだった。
「ね、かあさん、お買い物に行かない? なにかほしいものあるでしょう」
「んー、そうねぇ」
母はテーブルの上をじっと見つめてしばらく思案していた。
「りんごはもう買ったしねぇ……」
「果物じゃなくて、ほかにあるでしょう? 今夜のおかずとか」
食料はすべて私が用意したけれど、調理は安心して任すことができた。
「さ、行くわよ」
毎日の通勤には欠かせない黄色いラパンの助手席に母を乗せて街中をドライブする。
「ねぇ、かあさん、きのうはなに食べたか覚えてる?」
「ばかだね、おまえ。きのうのことなんかわかんないわよ。あした食べたものなら覚えてるけどさ」
五年前に父を亡くして、母の痴呆はそのころから始まったらしい。と言っても、母の痴呆はあしたと、きのうが、入れ変わっただけ。
ひとはいつもあしたを夢見て生きている。そのあしたの夢が叶って、きのうになるとき、ひとはこの世でいちばん幸せなひとときに巡り会うはず。母はもう一度、父に出会いたいのだ。父と生きたきのうが一巡りして、あしたになると信じているのだろうか。娘の夢見るあしたさえ、まだ来ないというのに。
「ねぇ、圭子。あしたは誰かと会ったのかい?」
信号待ちの交差点で母は唐突に言った。
「え……かあさん、知ってたの?」
七十をすぎた母とふたり暮らしだから、娘の歳は言わなくてもわかるはず。そんな私にようやく彼氏と呼べる男ができて、いつか母に打ち明けようと思っていた。
「ね、かあさん、会ってみる?」
「だれに?」
「私の彼氏……」
「いつ?」
「今日、これからよ」
「……」
「いやなの?」
「んー、きのうなら都合がいいんだけど……あたし」
「また、そんなへんなこと言って。ね、行きましょう」
街中を抜けて海岸通りに出ると、彼が営む喫茶店があった。白い小さなお店は潮風に吹かれて、いつもハミングしていた。どうしても、まっすぐ家に帰りたくなかったあの日、私は初めてこのお店に車を止めた。そして、彼と出会った。
「いらっしゃい!」
満面の笑みを浮かべて彼は、海の見える窓辺のテーブルに母を案内してくれた。
「ね、なにがいい? かあさんの好きなお汁粉もあるわよ」
「……あたしはミルクチィーでいい」
どことなく不機嫌そうだったけど仕方ないかも。お店には彼ひとりしかいない。バイトのひとは帰ったみたいだ。
「ねぇ、あのひとかい?」
「うん、そうよ」
「でも、圭子、あのひともう禿げてるよ。いいのかい?」
「うん、いいの」
私はもう生娘じゃないのに。なんだかおかしくて涙が出そうだった。
「お待たせしました」
アッサムの紅茶と白い小皿にのったアップルパイがテーブルに並んだ。母は紅茶を啜っただけでアップルパイには手をつけなかった。
「ね、かあさん。食べてあげて。これね、彼がつくったアップルパイよ」
「……」
拗ねたこどものような顔をして、アップルパイを見つめていた母は、何を思ったのか小皿を両手に持って鼻を近づけた。
「あらっ、これ……あしたのりんごだわ」
「えっ、ほんとに?」
一瞬、なんだかわけがわからなかったけれど、母はアップルパイをつまんでひと口齧ると、目を細めて笑った。
「うん、おいしい」
テーブルの上のあしたを母はおいしいと言って食べたのだ。カウンターの中の彼に思いっきりウィンクしたら、ほんの少し涙がこぼれてしまった。
初夏の香りに満ちた潮風に運ばれて、私の夢見たあしたが通りすぎて行く。
ね、かあさんもうれしい?