四番目の息
宣井龍人

四番目の息が聞こえる。
父の息。
母の息。
私の息。
そして、聞こえる。
他には居るはずがない誰かの息が。

まだ幼かった私は、父母に挟まれ、狭い二階の一室で、毎夜訪れる暗闇と遭遇していた。
昭和三十年代の東京下町のどこにでもある街並みである。
疲れてしまって香りがしない畳や一汁一菜ともいうべき食事。
だが、前を向いていた、希望に満ち溢れていた。
未来はこの手で作るのだ、街行く誰もがそう思っていた。

そんな彼らにとって、夜は絶好の休息だ。
今日も目一杯働いた彼らは、寝床についたと同時に、死んだように眠るのだ。
もう永遠に目覚めぬかのように。

私の父母もそんななかに生きていた。
貧しくも明日への希望を持っていた日々。
そして、夜の訪れとともに、死んだように眠るのだ。

その夜、私は妙に眠ることが出来なかった。
遅くまで働き続ける父母が寝床についている時間だ。
夜のしじまが辺り一面を覆っていた。
物音一つしない静寂の世界が、私たちを支配している。

そんな静寂を破って、得体の知れない何かが、階段を駆けずり回る音がした。
当時は名前も知らなかったが、妖精たちの乱舞ではないか、私は直感した。
疲れた人たちが寝静まった夜、悪戯っ子のように駆け回るのだ。

同時に、その夜には出かけていなかった祖母が呼ぶ声もした。
妖精たちが私をからかって、祖母の真似をしているのだろう。
私は思わず聞き耳を立てた。

その時だった。
生きている証に寝息だけを立てる父母。
父の寝息。
母の寝息。
眠れない私の息。
そして。

「はぁあはぁあ……。」
かすかな荒い息が聞こえる。
誰だ、この部屋に、あと誰がいるのだ。

私は必死に父母を起こした。
だが、彼らは魔法にかかったかのように眠りこけている。
他には誰もいない、この世界に生きているのは私だけだ。

息の聞こえる方向にあるのは、家族の思い出が詰まっている桐のタンス。
ところが、桐の木目から、徐々に何かが浮き出ようとしている。
全てを射抜くような緑色の目が、少しずつ暗闇に輝きを増す。

恐怖を感じた私は、タンスを凝視せざるを得なかった。
ついには、得体の知れないからだが、絵画のように滲み出る。
さらには、たった今、命を与えられたかのように、からだの厚みを増していく。

枕元から見上げた私に見えるもの。
その醜さおぞましさに、私の心は目を逸らした。
黒頭巾と黒マントを被った小人。
背の高さは一尺程度、全身も黒色だろうか。
黒く歪んだ手足が、マントから微かに見え隠れする。
つりあがった瞳のない大きな目は、緑色に輝き、口は耳元まで裂けている。
真っ黒な顔には、眉も鼻も見えない。

裂けるように開いた黄色く輝く口。
彼は決して微笑んではいない。
微笑むという本来の感情自体を持っていない。
微笑むということに、何の意味も持ち合わせていないのだ。

耐え難い時間が流れ続けた。
おぞましい小人は、手に小さな斧を握っていた。
私を十分に観察した彼は、次の行動に移ろうとしていた。
微かに震える斧が、無表情な彼の目で緑色に染まっていく。
次の瞬間、冷たく乱反射する斧が、高々と頭上に差し上げられた。

彼の目的は明確だ。
私は恐怖のあまり、布団の奥深く潜り込み目を瞑った。
今にも振り下ろされる斧の恐怖に震えて。
高鳴る心臓の鼓動は、布団を海のように波立たせた。

それから、どれほどの時間が経っただろうか。
私は、そっと、緑色の目を持つ小人に視線を投げた。
恐ろしい彼の姿は消え、いつものように桐のタンスが待っている。
いつのまにか、未だ目覚めぬ父母の手が、私のからだを優しく包んだ。
疲れきった私は、やがて、心を開放し、静かに眠りに落ちていく。

恐怖の一夜から何十年という年月が流れた。
しかし、忘れようとしても忘れることが出来ない衝撃の一つになっている。
悩ましい私の心は、今も忘却を拒絶し続けるのだ。

その後、二度と現れなかった緑色の目を持つ黒頭巾黒マントは、いったい何者だろう。
毎日が忙しく甘えられない父母に、私が、錯乱した夢を創造したのだろうか。

今日も爽やかな風に心洗われる日々。
何事もなかったかのように時は刻まれていく。
「もうこんな時間か」、私はそっと時計を見て、めっきり年老いた髪を撫でた。


自由詩 四番目の息 Copyright 宣井龍人 2015-04-17 22:25:47
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