海を渡る狼
竹森

真昼の砂浜で、
海を渡る白い狼を見た。

もしかしたらあの狼は、
昨晩の月光の速度に付いていく事ができなかった
落ちこぼれの月光の 成れの果ての姿 なのかもしれない。

都会の平らなアスファルトが駆け抜ける狼の爪を粉々に砕くのに対し、
起伏に富んだ海面は、その鋭い爪を傷つける事も、それに傷つく事もせずに、
狼を受け入れる。
狼が一歩その歩みを進めれば、
その圧力が遥か海底の泥を沸き立たせる。
海はきっと、狼を、優しく殺す事だろう。

「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」

若山牧水の短歌がふと頭に浮かんだ。
白鳥は染まらない。
染まらないからこそ、同じ空を飛ぶ白鳥を見つけられる。
狼はどうだろう。海を渡る狼。狼は染まらない。
海を渡る狼が、同じ海を渡る狼と出会う事はあるのだろうか?
きっと、もう二度と陸地には戻れない旅路。
いや、海を一度でも渡ろうとする狼ならば、
奇跡的に陸地に戻れたとしても、また、
何度でも、何度でも、海を渡ろうとする事だろう。
彼の心臓が太陽を求める限り。
彼の孤独が北極星を求める限り。

もしかしたら、この太平洋は、一滴の青酸カリを、
薄めて無力化する為だけに存在しているのかもしれない。
つまりは、一匹の狼を、殺す為だけに。

それがもう、
悲しくて、悲しくて、仕方がなくて、
僕は、泣きじゃくっていた。

すると、いつの間にか、
僕の隣に、一人の若い女がしゃがみこんでいた。

女は地平線を見つめていた。
無表情なその横顔は、儚げで美しかった。

女が口を開く、
「季節の境目って、あるのかしら?」
僕が答える、
「うーん。風は大気の急激な温度差によって生じるでしょ。
 だから、季節の境界線は風なんじゃないかな。それも、とっても強い風」
女が口を開く、
「ねぇ、私、雨が欲しいの」
僕が答える、
「それなら、目の前にある海に頼めばいいよ」

・・・嗚呼、狂っていた。

会話では無かった。
女が発した言葉に僕が答えて、
僕が発した言葉に女が反応する事はなくて、
これはただの、ただの二つの独り言だった。

それも当然だ。
なぜならその女は、
僕が積み上げた、
砂のお城、なのだから。

視界をぼやかす涙によってのみ、
その幻想は支え続けられていた。

自作自演。
全てが馬鹿馬鹿しかった。
ほら、やろうと思えば会話だって―――

「雨って、元は海水なのよね?あのしょっぱさは何処へ行ってしまったの?」

「しょっぱさというか、溶けた塩だけどね。
 それは、蒸発しないで、海の中に留まっているんだよ」

僕がそう言うと、
女は自分の右腕を口元にまで持っていき、
舌を出して、
チロリ、
と、舐めた。
そして、不意にこちらを向いた。
横顔ではなく、正面の顔を見たのは、
今回が初めてだった。
女は言う、

「じゃあ、私が昼間流した汗の中の塩は何処へ行ったの?」

「それなら結晶になって、君の肌の上に溜まっているよ」

「うそ。だって私の肌、しょっぱくなかったもの」

「そんな」

「ほら」

そう言って女は自分の右腕を僕に差し出す。
乾いた小麦色の肌に一点、
ジュクジュクとした 傷跡がある。
さっき女が、
チロリ、
と、舐めた部分だ。
(液体は染み込んで事物の色を深める、という事に気付く。)
それは魅惑的で 官能に満ち溢れていて
僕は女の傷口を舐めようと首を曲げた。
そして舌を押し当てた、つもりが、
僕の舌は感触も無しに傷口を突き抜けて
女の腕の中にのめり込んだ。
風船が破裂する様に
女の あの 女特有の 体臭が あふれ出し
僕は むせ返り、 むせ返っても 頑なに
その濃い体臭を吸い続けた。
甘い。
何が?
匂いが。
味が。
肉体が
唾液で
縮こまっていく
嗚呼
これは 綿菓子だ
いや違う  雲だ
皮膚を裏側から
舐める
溶ける
貝殻
じゃなくて
飴細工。
女が悲鳴を上げない。
女の表情が見えない。
嗚呼、狂っている。
誰か、助けてくれ。
いや、
誰も、助けないでくれ―――。

海面が

盛り上がる

大波だ

いや

違う

これは

・・・鯨?

風が吹く

風 というよりも
鯨の出現によって
押しのけられた空間だった

そして それは 僕の瞳を乾かすには
十分すぎる程の 風圧で・・・

「さようなら―――」

「嫌だ、行かないで!」



―――――――・・・・(波の、音)。






海面に折り重なった波の一つ一つは
疲れ果てた僕の 顔のしわの様だった

僕は自分の顔に触れ 刻まれたしわの数を、
積み重ねてきた年月を、 数え上げてみた。

すると 涙が溢れ出してきて止まらなくなった。
だけど あの女は もう居ない。

嗚呼 もう死のう
その為の  海だ

そう思いつつ、
涙の軌跡をなぞっていくと
僕の指先が、不意に、
荒れ狂う海の様に
荒廃した僕の顔の
顎に   到達し、
ゴツゴツとした
狼の毛並みを思わせる
白銀の無精鬚に触れた

―――その瞬間、
海原に狼が現れた。
・・・ぼやけた姿で。

慌てて目をこすると
打ち上げられた瀕死の鯨が流している紅色の血の様に
より鮮やかに、ハッキリとした姿を確認する事ができた。
これはいったいどういうことだろう?
あの狼は 僕の幻想ではないのだろうか?

白い狼は地平線に消えていった・・・
僕は本物の神秘を前にして
自分の死すらも もはや完全に 忘れ果てていた

星の一種?  いや、星よりも遥かに近かった。
錯視?    いや、それにしては余りにリアル過ぎた。

ただ、僕は僕のゴツゴツとした顎鬚を撫でれば
今でもその姿をハッキリと思い出す事ができる

独り海を行くその姿は とても頼もしくて、
辛くても もう少しだけ生きてみようかなと、
そう 僕に 思わせてくれて・・・。

空と海が溶け合う地平線は
当の空と海にとっては 存在しないもの

見るモノが見たら
僕と 海を渡る狼も
思いがけない どこかで
繋がっている の かも しれ ない


自由詩 海を渡る狼 Copyright 竹森 2015-04-12 00:00:31
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