フレーム
葉leaf



 私は成熟を渇望していた。若者特有の傲慢な自己中心性の檻から早く脱したくて、自らを華麗に相対化してしまいたかった。だが、いくら焦っても成熟するのは気分だけで、一向に本体が成熟しなかった。いくら思考を重ねて成熟はこういうものだとわかっても、それと自分の精神が実際に成熟するのはまた別物だった。
 だが、成熟は案外すんなりと私に訪れた。私はただ就職して働いて、その過程を思考で丁寧に跡付ければよかったのだ。限りない他者との相克、大きな社会との相互形成、その中で、一人称の中に閉じこもっていた私は見事に中心を分散させ、二人称との呼応、三人称との相互参画にきれいに目覚めていった。私は無事成熟したのである。
 その頃、年若い未成熟な人間と話す機会があった。彼は純粋に夢を持っていて、自分の孤独に閉じこもり、他人とどう接していいか分からず、社会など全く眼中になかった。だが、私は思ったのだった。この少年には純粋で絶対的な動機がある。相対化され不純になった私にはもう抱けない強力な推進力を持っている。この推進力でしかやり遂げない行動はたくさんあるに違いない。私はその推進力を失ってしまった。成熟は、何かを得ると同時に何かを失っていたのだ。
 人生は有限な映画のフレームのようなもので、一定の枠の中に一定の内容しか盛り込めない極めて不便な入れ物だ。新しい風景を写すごとに、それまでの風景は捨て去られる。映像の遷移はすなわち獲得と喪失の流れであり、だが映画はその有限性に観る者の注意を集中させることができるのだ。
 映像が移り変わるように、私は若い精神を失い成熟を獲得した。映像のフレームが有限であるように、人間の精神も有限であり、過去をどこまでも引き連れていることはできず、過去をほぼ殺し去るところでコンパクトに現在の迅速な行為が成立するのである。フレームの有限性が無駄なくコンパクトに現在の私を導く。そして、現在の成熟した私しか映しださない。私のこのフレームが、かつての私、自己中心的で純粋な衝動に満ちていたころの私を映し出すことは二度とない。私は成熟することで、純粋な絶対性を完全にフレームの外に逃してしまったのだ。


自由詩 フレーム Copyright 葉leaf 2015-03-09 03:57:18
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