最終回ジグソーみそ汁
吉岡ペペロ
母はおもての植物に水をやりにいくのだろう。
母の背中について歩くようなかたちになってぼくは新聞を取りにいった。
ちいさい灰色の母の背中。
ぼくはこの背中から生まれたのだ。
そんな実感はなんだかみじめだった。
海で祖父ちゃんを感じているほうがずいぶんと自然な気がする。
父は夕方商工会の旅行から帰ってくる。
旅行の前日父が用意したお酒に付き合った。ぼくはお酒が弱い。
父はその日機嫌がよかった。
商売で久しぶりに儲けでもしたのだろうか。
明日からの旅行が楽しみなのだろうか。
ぼくはちびちびと口の中を酒で潤す程度。
テレビはNHKがついていた。
全雇用者数のうち相当な割合が派遣やパートなんだという。
画面には年度別の折れ線グラフ。
おまえもはやく就職しなきゃなあ、こんなふうになって初めて父に言われた。
ぼくは日本酒くさいじぶんの息をかいだ。
うまくいかなかったから、しばらく休憩するよ、父の盃に酒をそそぐ。
あっというまに年取るぞ、まあ、俺もいまの仕事についたのは35だったからなあ、父がぼくの盃を見やる。
ぼくは盃をおいてタバコに火をつけた。
おんなじつらさよ、おまえも俺もな、父が気持ち良さそうに盃をあけてゆく。
おんなじつらさ?じゃあ父も仕事はあんまりうまくいっていないのだろうか。
母が居間に入ってきた。とたんに父の雰囲気がかわった。
嫌だなとは思ったけれど、けれどけれど、ぼくは子供たちにもっと嫌な思いをさせているのかも知れない。
この感情がぼくを落ち着かせた。昔からそうだったのかも知れない。
母を殴る蹴るものを投げるものを壊す父。ぼくはこころのどこかでそんなときいつも申し訳ない気持ちになっていたような気がした。ぼくのせいではないのだけれど。
働いていたころはこの感情を押し殺していたと思った。
妻と暮らしていたときもこの感情を押し殺していた。
誰かの役に立たなければ人生に居場所はなかった。
申し訳ありませんだなんて言える感じじゃなかった。
でもいまこんな暮らしに入ってそれでもぼくはこうしてテレビを見ながら父と酒を飲んでいる。
ぼくはパラルを撫でながら、そういえばパラルを洗ってやってなかったなと思った。
明日ぜったい洗ってやろうと思った。
今日弁護士と会う。
朝から新聞を読もうとしている自分に働いていたころの自分が重なる。
前の会社は社員に新聞を読むことを強制していた。
大きな字で書いてあることぐらい頭に入っていなきゃ格好わるい。それはその通りだ。
あぐらをかいて新聞を広げて大きな字だけ読んでいった。
パラルは股間のところに置いて撫でていた。
昨日洗ってあげたから毛触りがいい。
なんだか軽くてしっとりしている。
パラルがもそもそ新聞をひっかいてうんこをした。
パラルはぼくの役に立っている訳ではない。
この程度の癒しなんてなにを飼っても得られると思う。
うんこをティッシュで拭いてまた新聞の大きな字をパラルを撫でながら読んでいった。
弁護士に会うまえ海にはいかなかった。
喫茶店に入るとすぐ手を挙げる人物がいた。
初めましてもくそもないが初めましてだ。
弁護士は手際よくぼくのコーヒーを頼み世間話をしてきた。
躍らされているようでなんか嫌な気持ちになった。
印鑑を持ってくるのを忘れたことに気づいた。
またこいつと会うのも嫌なので、今日お話に納得したら印鑑を押して郵送します、ともったいぶってみた。
弁護士はすこし言いにくそうな顔をして、実は実印をお預かりしてまして、段取りが悪くて申し訳ありません、とぼくに印鑑を両手で渡してきた。
絶句した。妻に預けっぱなしだったのだ。
あと、印鑑証明などご必要なものをここにおまとめさせて頂いております、いちど目をお通し頂けますか?弁護士がぼくのほうに紙を丁寧にすべらせてきた。
となりの客がランチを食べている。
スパゲティーにみそ汁とサラダがついているようだ。
みそ汁の香りは店内のタバコの匂いに揉み消されていた。
白い紙のような光が降りていた。
このまえ子供たちと梅園に行ったときの天気がこんなだったような気がした。
海を見ていた。
祖父ちゃんは海で死んだけれどもちろんお墓に埋葬されている。
お墓参りいってないなと思った。
そこには祖父ちゃんはいないような気がする。
ラジオからオカリナが流れていた。
オカリナ特集のようでオカリナについていろいろ豆知識が披露されていた。
オカリナは土を焼いてつくった陶器なんだとか曲によって2種類以上のオカリナを使って演奏しているんだとかぼくには知らないことばかりだった。
口笛よりも高い音色で有名な映画音楽がながれていた。
心細げな潔さげな透明な音色。
高校生のベッドから垂れた手を思い出した。
花粉のせいだろうか。
白い光はまぶしくはなかった。
光はぜったい宇宙から来ている。なのに宇宙の暗黒はここにはなかった。
祖父ちゃんを感じていた。
ぼくは車から出てふらふらと歩いた。
ちいさなオカリナの音がきこえている。
祖父ちゃんという土を焼いて出来た楽器をふいていた。
海水から声がきこえた。
おまえたちをのこして死んじまって悪かったなあ、素朴で他人事のような悲しみがひろがった。