葉leaf



つい涙が出てしまうのは、思い出が夕立のように降って来たとき。思い出が大地を少しずつ削り、大地の裂け目からやがて泉を探り当ててしまうとき。孤独の泉、傷心の泉、夕立は私ですら忘れていたような泉をつぶさに刺し貫くので、そこから終わることのない痛みが溢れ出してしまう。裂け目から湧き出る涸れることのない痛みの泉は、やがて大河となって私の裡を流れ、その一滴が目の渦から零れる。

つい涙が出てしまうのは、ひとの好意が私の心の器で汲みつくせなかったとき。私が受け止めることのできる閾値や壁を超えて好意が流れ込んできたとき、私は好意にずぶぬれになり、摂取してもなお余りある好意をあらゆるものに変換していこうとする。多過ぎる愛を筋肉や内臓や血や骨を養うのに用い、私は少し大きくなる。多すぎる愛の僅かひとかけらが、私の乾いた欠落を潤し、もはや欠落のない完全な球体が、目の闇から零れる。

つい涙が出てしまうのは、芸術作品のすばやい電気に触れたとき。世にも奇妙な回路が私のなかに幾つも出来上がり、そのうちの一つが強力な電流を流し、私の涙を機械的に流してしまう。芸術作品は私を新しく構成し直すので、私も負けじと芸術作品を逆に構成していく。芸術作品にも既に無数の回路があるため、私はその回路をどこまでも遠くに接続していく。あの雲にでもあの太陽にでも、軽やかに接続していこう。

つい涙が出てしまうのは、大切なひとと別れたとき。人との別れは突然やって来るから、そして私とその人との間に張り巡らされていた精緻な電線の網を一気に引きちぎってしまうから。喪失を涙で埋め合わせることなど決してできないのに、涙は喪失の輪郭に沿ってただ流れることしかできないのに、ひとは無量の無意味さを込めて涙を流す。埋め合わせることができないからこそ、その不可能性に祈りをささげるために、儀式的な涙を捧げる必要があるのかもしれない。


自由詩Copyright 葉leaf 2015-02-20 03:44:19
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