恋愛詩の在り方
葉leaf



 現代詩において恋愛詩は避けられる傾向にある。その一つの理由は、現代詩の不可逆的な洗練の先にある書法が、恋愛を解体する傾向にあるからだろう。素朴過ぎて日常的に発される言葉は詩である必要がない。それは単に話されればいいだけの言葉である。現代詩は、詩であり続けるために、生活であれ幻想であれ、独特の分析や認識や飛躍を織り込ませることにより手法を洗練させてきたのである。だから、恋愛にありがちな単純な発語というものは、現代詩においては分析され解体され飛躍的に表現され、純粋な恋愛を語るものとしての原形をとどめなくなってしまうのだと思う。例えば、もとにあるものが単純な「あなたが好きだ」であっても、それを「自己と他者」という哲学的な図式にはめ込み、様々な修辞を施して行けばそこに現れるのはもはや恋愛ではなくなってしまう。
 それだけではない。恋愛の発語は往々にして隙がなく自己完結的である。誰かを愛しているとか僕らは愛し合っているとか、そこできれいに完結してしまい、読者の入り込む余地がないのである。読者としては、勝手に悦に浸っていろ、くらいの感慨しか持たないのである。詩には読者が入り込むための何らかの亀裂が必要であり、恋愛詩にはその亀裂を入れにくいのである。
 これは恋愛の独特の性質によると思う。恋愛は盲目的で、エゴイスティックで、閉鎖的である。片思いにしろ、愛している自分に酔っている書き手は多いだろう。両思いだったら、二人だけの閉ざされた領域に閉じこもるエゴイズムが際立って見える。だから、読まれる恋愛詩の書き方としては、たとえそこに登場する人物が自分と相手だけだったとしても、その両方に中心を置き、かつその両方の擦れ違いに敏感であることが必要だと思う。自分の言動に相手が動かされ、相手の言動に自分が動かされ、中心が行ったり来たりすること。そして、恋愛においても自分と相手の間には大きな亀裂があることを認識することだ。
 恋愛は単なる他者との関係ではない。そこには欲望が挟まる。欲望がある以上、そこには必ずすれ違いが生じるのだ。ところが幸福な恋愛の成就を求める多くの人たちは、欲望の持つ本質的な非調和性を隠ぺいしてしまう。あたかも二人とも幸福にうまくいっているように思いこんでしまう。だが恋愛に特有の欲望は、いつだって先走り、相手がよく見えず、迷走しては勘違いばかりする。この欲望の持つ調和を破ってしまう特徴を十分見据えること、そして、そこにおいて決して調和しない自分と相手との亀裂に敏感であること。そのようにして書かれた恋愛詩には、自己中心的な完結性などなく、むしろ多くの人に問題を投げかける隙の多いものとなるはずである。恋愛詩はそのような多様な亀裂を孕んで初めて、読者によく読まれるようになるのではないか。


散文(批評随筆小説等) 恋愛詩の在り方 Copyright 葉leaf 2015-02-11 07:58:02
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