Miz 4
深水遊脚

 政志くんと会い、レグラスと交信して初めて迎える休日だった。特に予定はないが、ある場所に行くことを何となく決めていた。前日のお酒が少し残っていたし喉も乾いていた。裂けるチーズの輪切り、水菜と大根のサラダ、白いんげん豆の入った野菜スープ、何もつけないトースト、それとコーヒーで簡単な朝食を済ませた。深煎りのインドネシアの香りで少しだけ頭が冴えてきたような気がした。ヒーロー結社の誘いについて考えることがだんだん習慣のようになっていた。ニュースをみていると、ヒーローが必要なんじゃないかという事件、事故、災害が意外に多いことに気付く。とはいえたいていの場合は専門的な機関が人を助ける役割を担う。一昨日この近所の公園で起きた暴行事件では今日未明に警察が容疑者の身柄を拘束した。昨日は雪崩の現場でレスキュー隊が救助活動をしていた。朝食のときみたニュース番組では、紛争地域で子供たちに勉強を教えたり心のケアをする人たちのことがレポートされていた。どれも完璧ではない。でも彼等はヒーローだ、そう思った。政志くんが話すヒーロー結社よりも現実味があった。その一方で、彼等に任せているばかりではなく、主体的にそんな状況に関わって行くことも必要ではないかという気もしていた。関わりを初めから持とうとしなければ、自分の快不快でしか物事を考えなくなってしまう。危険な場所で人が危険な目にあっているとき、その人の無事を願うより先に「何でそんな場所に行ったんだ」などと考えてしまう。なにも起こって欲しくなかったから。深夜のコンビニに買い物に出かけた女性がレイプされた事件をみて、レイプした犯人を憎むより先に「何でそんな時間に出歩いたんだ」などと考えてしまう。なにも起こって欲しくなかったから。何一つ引き受けずに、起こってしまったことも認めようとしない。主体的な関わりをあきらめた人間のなれの果ての姿に思えた。

 私がヒーローになるとして、何を理由として誰と戦うのだろう。傲慢さに怒り、とりあえずの他者の把握に基づいた薄い正義感を批判する、その程度には正義について考えているのだから、それを自分の核にして戦ってもいい。私の持っている正義感は多分レグラスと同じで、批判は自分に向けた批判でもあった。ならヒーロー結社に参加して、自分を棚に上げずに考え抜いて、正義感を深めて行けばいい。でも戦うとして相手は誰だろう?当事者なら考えないといけない。

 そもそも災害のように相手が自然であるなら戦いようがない。その場合は人を助けるのみで誰かと戦うという問題はない。それに相手が外国ならそれは戦争であり軍隊の仕事。相手が自国の場合は考えていない。一応国家のいろいろな庇護のもと、ヒーロー結社の活動をイメージしている。そこがテロ組織や反社会的組織に指定されるならまた別の話であるが、多分それはないだろう。これらの場合は敵を倒すというより人間を守ることになる。そして守る主体はどちらかといえば国家だ。行動する理由があるとすれば、人間観の食い違い、あるいは人間への探究かもしれない。国家や社会が漠然とそうだとする人間観が、ある生き方を排除する方向にその力を発揮してきたら、排除される人間を守る必要は生じるかもしれない。それは戦いなのだ。比喩ではなく。

 戦いはもう比喩ではなくなった。もともと比喩ではないのだ。戦争は常に世界中のどこかで起こっていて、よその国のそれを、よそ者がおかしな理由でおかしな争いをしているくらいにしか見ていなかっただけなのだ。私たちは自分達の通う学校やオフィスに似た、清潔で退屈で当たり前のものとしてそこにある建物が目の前で、あるいはモニターの向こうでぶっ壊されたり崩れ落ちたりして初めてそれに気付く。そしてもはや戦争は現実だとか戦争を語る言葉に新たなリアリティが必要だとか、起き抜けの戯言をそれなりのポジションにいる文化人やマスコミが浮き足立って口にする。それらも傍観者。そしてそんな空論をくさす私も傍観者。正義について考えるとき、傍観者ほどいやな立場もなく、それを正当化してしまう自分自身に気がつかないでいたことも嫌だった。嫌だけどこれは現実。しかも批判されるべきは他ならぬ自分自身。逃げ場がなかった。

 やはり人間観を考えないことには空回りしてしまう。これまで避けてきたけれど、考えてみることにした。敵とはなにかについて。それを判断するときの準拠枠について。

 戦うべき相手は自分を貶める他人か?私はあまり自分の不遇を人のせいにしない。裏返せば人はどうせ変わらないと諦めている。人を信じてはいない。変えられない、信じないものに費やす力はない。では自分を貶める自分か?最大の敵は自分自身、それは本当にそう思う。何かをやり遂げるには、自分から沸き起こる弱音だったり、諦めだったり、怠惰だったりをやっつけて事に取り組む必要がある。あの歌の"Hero"も、腐りそうな自分を奮い立たせる内なる分身のことだろうと思う。でも夢の実現のために自分のある部分を惨殺する者に主導権を渡してもよいものか。自分のなかにはいろいろな悪がある。そしてそのタイプの指導者はとりあえず悪に分類したほうがいい気がした。そもそも夢は夜にみるもの、そして夜で終わるもの。自分に憑依した他人が本来の自分を夢に似たもので浸食するのを簡単に許していいわけがない。そんなのは自分との戦いとはかけ離れている。はたまた他人を貶める自分か?これは一考に値する。他人についての間違えた認識をもって貶めたまま評価を変えようとしない。そんな罠にはまることはとても多い。そんなときは自分を客観的に見ることが欠かせない。常にそういう視点をもつこともまた戦いだ。理屈はわかるもののこれは難しい。間違えた認識を判断するための正しい認識は成り立つものだろうか。自分でそれをもつだけでも難しいのに、他人とそれを共有しないといけない。そうでないと仲間を信頼して敵と戦うことなんてできない。それとも他人Aを貶める他人Bか?これが一番ヒーローらしい設定かもしれない。でも他人Aが正しくて他人Bが間違っていると決められるだろうか。そこには自分が当事者である場合について考えた善悪の判断のむずかしさがそのままある。そして他人事だからそれを真剣に考えずに行動してしまいがちになる。さらには真剣でない行動が人気を得ると、当事者そっちのけのパフォーマンスをオーディエンスに向かって演じ続けるだけの有害でしかない怪物が出来上がってしまう。100人のヒーローを無駄に立ち向かわせてしまうような怪物が。

 結局はどの場合も、正しさの認識の話になる。哲学は答えを出さない。私の知らないところで答えを出しているのかもしれないけれど、ある答えを疑わなくなったらそれは哲学ではない、何となくそう考えている。宗教は簡単に答えを出す。共有も有無を言わせない。たいてい疑いは罪となる。個々の信者の考え方や果たす義務が信じられないほど軽率としか私には思えなくて、行動の結果が重大だった、そんなカルトもあった。一方でほとんど村の寄り合いと変わらない伝統的な宗教結社もあった。宗教的な実践が日々の生活に結び付いていて、生活が先か宗教が先かわからない感じだった。カルトとは全然違うものだけれど、疑わないという点は、案外一緒なのかもしれない。

 ヒーロー結社が誰を敵とするか、ある程度は当主の市田幸盛さんを信頼しなければいけない部分ではある。でも盲従するよりは自分でも考えるべきだと思う。そうしないとギリギリの命のやり取りなど、到底できない。政志くんの話を聞く限りではその価値観において食い違いはあまり感じられない。それぞれがとても思慮深く、盲従という状態でもないようだ。

 私は今日、誰が敵なのか、私が戦うとして何と戦うのか。あるいは戦うべきではないのか。それを深く考えるためにある人と会うつもりになっていた。まだ連絡をするには早い。メイクはごく軽めにして、ラフになり過ぎないように細めの黒のパンツにグレーのタートルネックのセーター、そのうえに細いシルバーのネックレスをつけて濃紺のコートを羽織り出かけた。行く先は隣町のお寺にあるお墓だった。


散文(批評随筆小説等) Miz 4 Copyright 深水遊脚 2015-02-05 08:41:44
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