虚空のひと
クロヱ
とかく、何も見えないほど濃ゆい霧が立ち込める花畑にて
あたしは、そこに老紳士が絶えず立っているのを知っていた
その老紳士は
タキシードにハットを目深にかぶり、白手袋をして真黒の漆光沢のある杖を腕にかけていた
そして首から胸にかけて、思い出の旧式カメラをぶら下げていた
老紳士のそんな格好は初めて見たので、何故か可笑しくて
「お晩ですね」
あたしは老紳士に呟いた
「今は春ですよ、お嬢さん」
老紳士は懐かしく微笑むと、これまた懐かしい声を口から吹いた
あたしはこらえきれず、駆け寄った
「あなたはそこに在りなさい」
老紳士は大きな手をあたしの頭に置き
静寂を植え付けた
どれほど経ったか
「お元気ですか」
あたしは鈴の音のように絞り出した
老紳士は日向のように微笑み
「あなたは今も 宝物に見えます」
腕を広げて包んだ
目を開けると、老紳士はあたしを行き過ぎた
その後に、
懐かしい土の匂いがする気がした
あたしは花畑から繰り返し対岸に立っていた
「さようなら」と、花束を投げると
この虚空から戻っていった
あなたのいないこの世界で
強く 思う
「あたしは 宝物だから」
強く 生きる