Miz 1
深水遊脚
意味がわからない。最初にその人と話したときはそう考えた。いまでもわかってはいないけれど、そのときのわからなさは、身体中がふわふわして頭が妙に重くて、臍から下の感覚がほとんどなかったと思う。なにしろ唐突だった。
「ヒーローになってみないか」
初対面の相手にこんな言葉づかいでこんな素頓狂なことを話す人などこれが初めてだった。そのあと何人かそんな人に会うことになるのだけれど。その不躾さに加えて、馴染みの喫茶店の珈琲を味わい、その余韻でしばらく静かに過ごしたいという平穏を破られたことはわりと重大だった。初めに感じたのは強めの不快感だったと思う。
「着ぐるみのアルバイトのお話ですか?興味ないのでお断りします。」
「そんなんじゃないよ。きみが持っている力が欲しいんだ。」
「私が?」
「そう。なにしろその力はどんなに相手が強くても急所を突いて相手の戦意を削いでしまう。我々がいくら力業を連発しても相手は我々の力を知り抜いて」
虚を突かれて次の言葉が一瞬でなかった。でもこれだけは聞いておくべきだと反射的に口にした。
「いつ私のことを調べたのですか?なにを調べたかはわからないけれど、無断でされると不愉快です。あなたのしたことを全部話してください。場合によっては警察を呼びますよ。」
「ごもっとも。」
私がそう言うのを予測していたように男は答えた。身構えた様子もなく、ごく自然に。
「これでもプライバシーには気を使っているつもりではいるんだ。私たちのしていることは、過去と未来と、この現在をつなぐ思念の糸を辿ること。その力の持ち主を探して行き着いたのがあなただった。そういう訳なんだ。」
「………」
……こらっ……
別の声がした。
……こちらが何者か伝えないままでそんなこちらにしかわからない話し方をされたら、大抵の人は混乱して警戒して怯えるでしょう。そりゃこんな段階で全部話してもらっても困るけれど、自己紹介をもっと自然にできるパターンくらいはその人に合わせて持っていなさい。……
「わかったよ」男は小声で言った。
その声のいうことに少しだけ同意できた。でも思った。
(あなたも何者?)
……私はレグラス。いまは名前だけ伝えます。……
(え?)
反応があって驚いた。
……心配はいりません。あなたとはこれからたくさん話すことになりそうだから。マミさん。……
(え?え?どこにいるの?なんで私の名前を?)
「レグラスの声が聞こえるの?」
男が声をかけてきた。考えただけのつもりが、独り言として呟いていたらしい。
「声が聞こえて姿がみえないなんて、本当にあるんですね。初めて。」
と辛うじて冷静さを保ってそんなことを呟いたが、男はマジマジと私をみつめる。
「すごいことだよ。やっぱり本物だ。すごい、すごいよ。ほら、震えが止まらない」
男は興奮して、いつの間にか私の両肩をつかんで揺すった。たまらず目をそらした。視線の先には、いつもお喋りをする珈琲店の女性店主がいた。いつもの落ち着いた立ち居振舞いは崩さなかったが、ひとこと鋭く言い放った。
「お客さま!」
男はすぐに肩の手を外した。顔馴染みでよかった。店主が女性でよかった。珈琲の余韻を邪魔された不快感がふっと軽くなった。でも店主はこのやり取りそのものにはあまり驚いていないようにもみえた。
私は落ち着きを取り戻して、肩の手を外した男に伝えた。
「あの、せめてちゃんと自己紹介してください。」
「そ、そうだね。レグラスに言われたばかりだ。ごめんねマミさん。僕は市田政志。」
「私が自己紹介する前に適当に呼ばないでください。私は須田真水。本当の名前はマミズ。たしかにマミと呼ばれていますが。」
「そっかあ。名前は大事だよね。ごめんね、マミさん。」
睨んだ。
「いや、マミズさん…」
本当は堅苦しく本名で呼ばれることに違和感はある。よく子供にこんな変な名前をつけるものだと昔は親に毒づいたものだった。主に心のなかで。マミさんのほうが心地がいい。レグラスという人の声にそう呼ばれたときは違和感がなかった。でもこの目の前の男にはちゃんと呼ばせたい!
「でね、マミさん」
いけない。もうこれだ。政志は滔々と市田家と彼らが運営するヒーロー結社のことを話し出したが、マミズさんはすぐマミさんになり、五回目くらいには、あろうことかマミちゃんになっていた。この人もか、と軽く失望した。といっても男性の平均的なしゃべり方だったのでそのまま受け流した。距離を縮め慣れている、そんな感じだった。それでいて私の反応の仕方はよくみている風で、わからない顔をしたときは話し方をゆっくりにしたり、難しい言葉を避けたりしていた。こちらが身を乗り出すと向こうの話し方も滑らかになった。無神経はあくまで無神経であるけれど、こちらの意思はきちんと汲んでくれるので一応安心できるタイプだろう。そう思った。まだ油断はできないが。
一頻り話終えたあとで、政志はいった。
「いっぺんに話したから頭のなかがぐちゃぐちゃだと思うよ。こちらからのお話はいったんストップするね。珈琲の余韻、邪魔してごめん。お詫びに一杯ご馳走させて」
「お気遣いなく」間髪入れずに断り、そして店主に向かい注文した。「ケニアをください」
政志も注文した「ブラジルで」。そのあと少し沈黙を挟んで、おずおずと私に向けて「珈琲がお好きなんですね」と言った。私は不機嫌のポーズを保ちながら、
「普通、ヒーロー云々よりその台詞が先にきますよね。」といった。
「あ、ごめんね。」
「ということはナンパじゃないんですね。」
「はい」
「ということはあなたと私は対等。それでいいですね。」
「もちろん。」
「私、そういうところじゃないと参加して貢献する気にならないから。でもあなたはそう言ってくださるけれど、いまのお話を聞くと、対等というわけには行かなそうね。お兄様の幸政さんも、従兄弟さんの晴久さんも、女なんてって嫌ってそう。あなただってどうかわからない。」
「特別そういうことに厳しいみたいだね。」
話をそらされたようにも思えた。でも感情的に反発されなかったことは意外だった。そしてこのことで少しだけ気持ちが楽になった。
「もし入ってくれるとすれば、これから戦闘訓練に参加してもらうことになるね。さっき話したとおり、うちの家が経営しているスポーツジムで毎日メニューをこなしてもらって、週1回の演習場での訓練。そのなかでは上下の規律は守ってもらわなければならないんだ。男女は関係なくね。」
「それはもちろんそうね。」
「幸政兄さんは、難しいところもあるけれど、筋の通った人で間違ったことは嫌い。いい人だから大丈夫だよ。」
「はい。」
「亀山さんちの晴久くんは律儀な男で、とにかく何事にも丁寧。品があるから女性に対して粗雑に接することなんてないと思うよ。」
「はい。」
「まあ、二人ともあまりモテないけれどね。」
「関係ないです。」
「あ、そうだね。モテないからって悪い男でもないしね。そうそう、俺も」
「そういうことじゃなくて。私が入隊するとして、そこではあなたと、幸政さんや晴久さんにモテる必要はないですよね。」
「あ、もちろんそうだよ。」
「同じように、戦闘員の方が誰からも恋愛対象として見られないことに、なんの問題もありません。むしろ規律に照らして好都合ではないですか?」
「それは、その通りだね。す、少し真剣みが足りてなかった。」
急に緊張した面持ちで政志が話したのにつられて思わず笑いがもれそうになったが飲み込んだ。よく考えれば不審だが、この男はそれほど警戒しなくて大丈夫かもしれない。
「新米の私のほうが戦闘員としては劣っているのが当然で、ご指導には従います。」
「え、それじゃ、参加してくれるの?」
「はい。参加します。」
……よかった……
レグラスの声がした。
この文書は以下の文書グループに登録されています。
Miz