詩は現実逃避ではない
葉leaf



 詩を読むことで日々の疲れを癒す。詩を読むことで嫌なことも忘れられる。詩はそのように、美的快楽を生み出し、人々の日々の現実生活を忘れさせてくれるもののように思える。また、詩を書くことに夢中になる。良い詩が書けると非常なストレス解消となる。詩はそのように、人々を束の間の遊戯の空間に連れ出してくれるように思える。要するに、詩を書いたり読んだりすることは、人々の美しい夢であり、人々の現実逃避に役立っているように思えるのである。
 これはある意味正しい。確かに短期的に見れば、つまり詩を書いたり読んだりしているときに限って言えば人々は現実逃避しているだろう。だが、長期的に見れば、詩を書くことや読むことは、人々がより一層現実に絡め取られていくきっかけとなるものである。というのも、詩は、それが優れていれば優れているほど批評的であるからだ。つまり、すぐれた詩ほど、現実に対して何らかの問題提起をし、人々の現実に対する態度決定に何らかの影響を及ぼすのである。
 詩を読むことで、そこに現れている思想や態度に対して我々は何らかの反応をする。詩の感銘度が高ければ高いほど、例えば我々のものの見方が変わったり、考え方が変わったりする。例えば、自分とは全く違った観点から物事を捉えている詩に感銘を受けると、いつの間にか自分もそのようなものの見方に影響されていたりする。例えば、自分が思いもよらなかった考え方を印象深く歌っている詩があれば、自分もまたその思想に影響を受けたりもする。詩を読むことは美しい夢かもしれないが、それは美しければ美しいほど批評性が強く、我々の認識や態度を変える力を持つ。
 また、詩を書くことは、その場しのぎの自慰行為ではない。確かに、排泄や自慰として書かれた詩もあるだろうが、多くの詩は読み手に何らかの印象を与えようとして書かれるわけであり、そこには必ず何らかの工夫が加えられる。この工夫を加える所で、詩人は技量を尽くして自らの底の方からたくさんのひらめきを発掘してくるのである。だから詩を書くことは自己批評であり、つまりは自己を見つめ直すこと、思いがけない自己を発掘する行為であるのだ。だからそれは単なる刹那的な夢で終わるものではなく、その後の詩人の在り方をより豊かにするのである。
 さて、ここまでは実際に詩を書いたり読んだりするときに起こることについて書いてきたが、そもそも詩というジャンルにかかわることが、社会に適応できなかった弱者の現実逃避となる事例は非常に多い。結局何をしてもうまくいかなかった人間が詩をやるという事例は非常に多い。それはそれで構わないと思う。一種の社会的セーフティネットであろう。だが、そのような弱者のルサンチマンにより、詩が弱者の所有物のように語られることに対して私は反対である。詩というものは社会不適合者によってしか真にすぐれたものが生み出されないのだ、などといった言説に私は明確な根拠を見出しがたい。社会に適合できる人間であっても、その社会に豊かな詩の源泉を見出す能力があり、かつそれを表現する力があれば十分優れた詩が書けるのであり、そのような強者の詩を排除すべき理由はどこにもない。実際問題として、何らかの傷を負った人間が心の叫びとして詩を書く事例は多いと思うが、特にそれほど傷を負っていない人間であっても、すぐれた感受性と表現力と推進力があれば優れた詩を書くことができるのであり、それを排斥すべき理由はない。
 現代においては誰もが容易に表現者になれる。かつては、もはや人生に表現しか残されていないような人間が表現することに縋りついたかもしれないが、現代では社会的強者でもすぐに表現に関する情報やツールを手に入れることができ、社会的強者でしか表現できないようなことを表現するようになってきている。弱者にしか語れないことがあるのと全く同様に、強者にしか語れないこともあるのである。これからの時代、詩を弱者の宝物とするのではなく、より相対化し、強者にしか表現できない作品でもって詩の領域が多様化していくことを望んでいる。


散文(批評随筆小説等) 詩は現実逃避ではない Copyright 葉leaf 2015-01-12 08:01:28
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