中村梨々詩集『たくさんの窓から手を振る』について
葉leaf
中村梨々の詩集『たくさんの窓から手を振る』(ふらんす堂)を読んでいると、奇妙な点に気付く。この詩集には「青春」が存在しないのではないか、と。子どもと大人の視点では書かれているが、若者の視点が不思議と抜けている。だが、この詩集を駆動する原理やこの詩集の構造は、青春時代に直面している書き手の詩集の原理や構造とパラレルであることを以下に述べたいと思う。
青春とは定義しづらいものだと思うが、ひとまずここでは、自己と社会との葛藤や理想と現実との葛藤、そして自己形成していくにあたっての自己という混沌との対峙、という点から青春というものを眺めてみたい。中村の詩集にはこのような青春の契機があまり見えてこない。その代わり、それに類するような構造が見えてくる。
ナオちゃんがいうには、あたしたち自転車に乗って
ロシアの平原を突っ走っていたって
すごいねぇ、ロシアなんて行ったこともないし行きたいと
思ったこともないのに、ロシア
ロシアロシアロシア、あたしはもう駅とか空港とか
思い切り空とかすっ飛ばして、ロシアにいる
(「ロシア」)
この詩編に見て取れるのは、大人には理解不能な子ども独特の盲目さだ。「あたしたち」はよく知りもしないロシアのことで頭がいっぱいになってしまい、そこへ至る手続きや距離など無視されている。このような不条理な執着とエネルギーの爆発、大人である私たちはそこに「異文化」を見て取るのではないだろうか。私たちの常識では説明できない未分化で周縁的なものがそこにはある。
このように子どもの世界というものは我々を拒む不条理さを備えているが、中村はそれを直視するどころか、むしろ子どもの世界の中に再び入り込み、その不思議な魅力を言葉で訴えかけてくる。中村にとって、自己の中に潜む魔物、自己という混沌は「子ども」の形をとっており、それは若者が青春の時期に直面する、熱を帯びて分裂した、成長の途上にある自己という混沌の代わりをなしている。若者が激動のさ中にある自己の混沌を見つめ、それを表現するのとちょうど同じように、中村は、自己の中に潜む「子ども」を見つめ表現するのである。
皮膚からガラスの焦げた匂いがする。姿をかえて異国。白い砂をすくって音は静か。真後ろの水際を呼ぶ、おいで。手のように握って頬のようにつねって陸にあがれば、断たれた水路。風速にしかばねが切れていく。ばららあばラ骨、戯れる。(わたしはいちどこわれたかたち。(はじめて会ったものにこわされてゆくの))。
(「春雷」)
詩を書くという行為は、何らかの葛藤に駆動されていることが多い。青春期における人間は、社会と自己との葛藤や理想と現実との葛藤などで、生理的なレベルで声を上げざるを得なくなる。その場合、内容は特に問題とならない。苦しみをそのまま叫びたてるケースももちろんあるが、およそ抽象的で、人間らしさのかけらもない詩行が葛藤に基づいて発されたりもするし、まったくもって静けさに支配された詩行が発されたりもする。だがそれらの詩行は何らかの意味で葛藤に結びついている。
この引用部の前半は、きわめて静的な描写になっており、大人の女性の淡々とした精神がうかがわれる。引用部の後半には、こわれやすい子どもの世界が幾分投影されている。だが、ふりだしに戻って考えよう。そもそもこの詩がなぜ書かれなければならなかったか。私はここに、中村の、自己の中における大人と子どもの葛藤を見て取る。中村は大人になりながらも子どもの精神、その自然な混沌をずっと鮮明に抱き続けた詩人である。だがもちろん、子どもの原理と大人の原理はうまく整合性が取れない。中村の中の大人は、処世術もわきまえ常識も手に入れ落ち着いたまなざしを持っている。だが、中村の中の大人は、中村の中の子どもによって不断の挑戦を受けているのである。中村の中の子どもは未分化なまなざしでもって暴走しようとする。それを中村の中の大人はうまく手なずけようとする。この葛藤がそもそも中村の詩作を駆動しているのではないか。
だから、整合性の取れないもの同士の葛藤に駆動されているという意味で、中村の詩作は青春期にある若者の詩作と何ら変わらないのである。そして、引用部にあるように、中村の作品には大人の視線と子どもの視線が競い合いながら同居している。中村の詩の緊張感は、詩作を駆動する葛藤をそれなりに忠実に映し出すことから生じていると言えるだろう。
さまざまな眠りに就いた。鳥の数が増えた。鳥の数が増えたぶんだけわたしの数も増えた。夜明けに飛び立つ鳥は、帰って来るとき数を減らした。飛べないわたしは夜明けになるとわたしを集めて組み立てる。雨も雪も分かるのだけど、雨に近いもの雪に近いものがみんな、うっすらとした灰色に覆われていくし、いたずらな数を言うので増えたり減ったりしたような気分が味わえる。
(「夜、鳥を飛ばす」)
だが、人間が長ずるにあたって青春の葛藤が和らぎ、対立物もだんだん調停されていくように、中村の中の大人と子どももただ対立しているだけではない。この引用部において、中村は、数という理性的なものを登場させ、数によって全体に統合を与えているし、「組み立てる」というのも大人らしい統合の働きである。だが、ここでは「わたし」の数が増えたり、「わたし」が集められる前のバラバラな状態であったりもする。子ども的な不合理で秩序だっていない感覚が、大人的な秩序によってうまくまとめあげられているのがわかる。
かつて「永遠の子ども」という文学のモチーフがあった。例えば『星の王子さま』のように、文学作品において、主人公が子供としての自然と自由と純粋さを保つために夭折するというものである。人間が俗世にもまれて世知に長けていくことへのアンチテーゼとして、純粋な子どもは純粋さを固定するために作品内で死ななければならなかった。
中村は、この「永遠の子ども」というモチーフを、単なる問題提起として投げかけているのではなく、自らの血肉と化しているのではないかと思われる。もちろん中村は大人であるが、その子ども性を外部に投擲してしまうのではなく、自らのうちに子どもを永住させ結合させることで、子どものポジティブな面を保存し続けたのではないだろうか。子どもらしい幾分唐突だけれど意表を突くような認識が大人の筆致でうまくまとめあげられているのを、私たちは中村の詩群に見て取るが、そこでは、子どもの大人世界への問題提起というものが、その鋭さを失うことなく巧みに整理されている。
中村の詩には「青春」が欠落しているかのように見える。そこには若者特有の青臭い悩みは見当たらない。だが、中村が詩を書かざるを得ないのは、内なる大人と子どもが葛藤しているからであり、葛藤に駆動されて詩を書いているという意味で青春期の詩人と何ら変わるところはない。また、中村が葛藤の際に見つめているのは「子ども」という内なる混沌であり、若者が青春期に直面する「未整理な自己」という混沌と類似している。さらには、中村は単に葛藤するだけでなく、内なる大人と子どもの間で調停をとっていることも見て取れる。ちょうど青春期にあった人間が徐々に社会や現実と調停をとっていくように。
だから、中村の詩作の内容に青春らしさがないからと言って、それを単なる大人の余技とみなすことはできない。むしろ中村は内なる混沌と向き合い、激しく葛藤し、それでも調停を試みるという、若者顔負けの営為を詩作の現場で行い続けているのである。そして、そこには青春の刹那的な激しさとは異なり、子供らしい純粋さや鋭さを血肉化し保存していこうという永続的な営みが見て取れるのだ。中村は月並みな青春に駆動された一過性の詩人ではない。否応なく成熟を迫られる社会の中において、このように内なる子どもを保存し続けることは困難であり、その困難な営為を詩作として表現している中村は稀有な存在だと言わねばなるまい。