贈与
葉leaf




贈与ほどけがらわしいものを私は知らない。それはいつも善意や愛という面持をしながら、結局は私に負い目を持たせるものだからだ。プレゼントをもらったらいつかお返しをしなければならない。育ててもらったらいつか老後を養わないといけない。誰かから何かが贈られるとき、私の中には常に負い目や義務が生じるのであり、そんな負担を私に課すくせに、相手としては私に何か利益を与えたつもりになっている。私はこの負い目が大嫌いだ。勝手にいろんなものを贈ってきて、それでもって私を負い目でがんじがらめにするのは勘弁してほしい。
そこで私は誰からも何も受け取らないことにした。愛情は踏みにじる。贈り物は破棄する。私の内部は清浄でなければならない。負い目で汚されてはいけないのだ。そうして必然的に私は詐欺師になった。私は生活の資を得るために、交易しない。互いに義務を負い合うようなけがらわしい真似はしない。私は相手から財をだまし取る。私の利益はすべて私の力で主体的に勝ち取られたもので、私は誰に対しても恩義を感じる必要がない。詐欺師は私の天職だ。
だが、私はあるとき気づいた。この私の存在があらかじめ贈られてしまっていることに。私はこの私の存在を何ものかに負っている。神とか超越者とかそういった類の何ものかに。この私の存在が贈られてしまっている非常に忌むべき事態を解消するために、私は超越者のプログラムに細工をした。超越者がその愛でもって私の存在を生み出したのではなく、超越者がその憎しみでもって私の存在を生み出したように、プログラムを見事に書き換えてきた。これで、私は自ら私の存在を作り出したことになる。やれやれ、だ。
しかし、最大の難問がやって来た。私は、私から自由を贈られているというけがらわしい事態にずっと甘んじていたことに気付いたのだ。私は誰からも負い目を受けないが、それはまさしく、私が負い目から自分を解放することにより、自分に自由を贈与し続けてきたことに他ならない。私は私に対してこの自由について著しい負い目を感じる。なんという汚辱。私は負い目よりも自由をはるかに重んじる。ということは、自由を贈与されることの方が私にとってはよっぽど負い目となるのであり、自由を贈与されるくらいなら人並みに義務を負った方がいい。
かくして私は詐欺師をやめた。もう自らの手ですべてをつかみ取ろうとは思わない。それは自分に輝かしい自由を与え、それに対する負い目の感情を生む最も忌むべき行為だ。それよりは人並みに贈与し合って適度に負い目に汚れながら生きていく方がよっぽど負い目が少ない。かつて私が追及していた究極的な自由、あんなものを贈られるくらいなら、俗世間で小市民として贈り贈られ暮らしていた方がよっぽどましだ。


自由詩 贈与 Copyright 葉leaf 2014-12-23 06:16:24
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