葉leaf

ブログを書くという行為は白紙を黒いしみで汚していく行為であり、無垢な幼児に有害な社会教育を施す行為である。何も存在しなかったはずの透き通ったウェブ空間に、自らの存在の汚れをなすりつけていく。人間は存在自体が汚れであり、その肉体・思想・感情、豊かであれば豊かであるほど汚れている。だが、善と悪とが同義であるように、この汚れは美しさと全く同義なのである。ディスプレイが文字で汚されていくと同時に、美しい音と意味と形の建築が徐々に出来上がっていく。すべての汚れは美しく、すべての美は汚れている。すべての存在はこの両義性の隙間をするする螺旋状に伸びていく蔓のようなもので、文字を打ち込んでいくごとにディスプレイは美の激しい揺らめきで残酷な傷痕を負っていく。
(だがそもそも白紙は無垢だったか。白紙は真っ白に汚れていたのではないか。ペンキ、精液、修正液、そういうもので分厚く汚されているのが白紙ではないのか。白紙には汚れが先立っている、存在が無に先立つのと同様に。ブログを書く行為は、汚れた白紙を元に戻す行為、文字の輪郭でもって背後の暗闇を取り戻す行為、そう言ってもいいかもしれない。)

ブログは自分の同一性が事典のように少しずつ継ぎ足されていく場所である。自分の考えや趣味・感受性など、自分の在り方にとって要となるものが層状に積み重なっていく場所である。ブログを開いてみよ、そこに自分がいるではないか。もう一人の自分ではなく、ブログは自分の身体の延長線上に体を開いている。ブログは新しくできた自分の脳であり口であり耳であり眼である。ブログが自己と同一になったとき、ブログは自分を際限なく許してくれる居場所となる。どんな自分でも、ブログもまた同一の自分なのだから、そんな自分の煩わしさを母親のように許してくれる。どんな無駄話、愚痴、自慢、一方的なディスコミュニケーション、すべて許してくれるのが自己の過程であり延長であるブログ空間だ。
(だがそもそも自己は一枚岩だったか。たとえブログが自己の延長上にあったとしても、そもそも自己が臓器のような複雑な混成体をなしている場合、果たしてそれが投影された場が同一性によって統一されているとはとても思えない。むしろ積極的に自己は悪意に満ちたカオスだと言ってもいい。そんなカオスの居場所もまたカオスであり、カオスがカオスを許してくれるはずなどないのだ。)

あるときブログを書籍化してみた。一つ一つ孤立して、気炎を上げたり消沈したりしている記事たちに愛情の薬液を与えたのである。本として慎密にまとまったブログは、それぞれの記事が紙として肌を寄せ合っていた。時系列上にランダムに散らかっていた記録が、自分の本棚の中の一冊として、落ち着いて親しい体温と魅力を放つようになった。過去の自己が掌に与えられたとき、もはや私は孤独ではなかった。過去の自己は確かに今の自己とは違う路上を歩いていたが、確かに今の自己と同じ太陽を浴びていた。自分はもう孤独ではない、自分の欠落は過去の自分によってまんべんなく埋められてしまった。
(だがそもそも自分は孤独だったか。ブログを書籍にしなくても、過去にその記事を書いた記憶は形を変えながらも自分の中に堆積していたし、それ以上にブログに書かなかったことも自分の中には華やかに飛び交っている。ブログに書かなかった言語をすり抜ける体験の記憶は、何よりも現在の自己に親しく、そちらの方が自分の孤独を癒してくれているのではないか。ブログなどなくてもよかった。言葉にされず沈黙の相手をさせられた体験の方がよほど自分の欠落を埋めている。)

ブログは鏡のようなものである。ブログには顔かたち、風采や風格が映し出されるし、一つ一つのしぐさ、その癖もまた映し出される。それだけではなく、ブログは無形なものに形を与える場所であり、目に見えない痛みや喜悦を空間の中に映し出す場所でもある。さらにその鏡の角度はあらゆる方向を向いていて、どこへでも出張していくので、いとも簡単に覆いをすり抜けて、秘された無数の果実を映し出していく。ブログは自分の根底にある栄養源のようなものをいくらでも吸い上げてしまう。
(自分はブログとコミュニケートする。自分の発するものがブログという鏡に正しく映し出されるとは限らない。このブログという鏡は、いびつでところどころ曇っている厄介な代物で、うまく自分を発信しないと予想した映像を返してこない。自分の未知の部分が鮮やかに映し出されたり、自分の誇らしい部分が曇らされたり、なかなか自分を手玉に取るのがうまい。コミュニケーションなどとっくに放棄しているのだが、それでも懲りずにどこまでも話しかけてくる。)



自由詩Copyright 葉leaf 2014-12-05 03:05:16
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