ほんにんれき
nemaru

わたしは、昭和53年(1978年)10月ごろ、京都市で生まれた。 くだらない人間だった。

小さい頃はやんちゃだったため、 飛んで首を切ったり階段から転げて頭を打って流血騒ぎ(鉄の階段で残り三段目のところから落ちたので、そのときの音からとって通称ガンゴンギン事件と呼ばれる)を起こして入院する。 そのうちよく泣くようになり、性格もおとなしくなる。

小学校の頃は恥ずかしがりということで片付いていたが、 中学生になると人と打ち解けることも少なくなる。 いちおう友達はできる。 高校になると病んできて、頭から漫画の吹き出しが出る妄想にとらわれ、人に笑われていると思い込んで、恨む。科学室の机についているガス管をすべて開け放ってドアの横っちょに白熱灯を置いておく想像(誰かが入ると爆発する)や、自分はファイナルファンタジーセブンに登場した「ベータ」という青魔法が現実に使えて、マンホールから火柱を出して誰でもいつでも焼き殺せると信じる事でなんとか自分を保つようになる。

いつのまにか人のどこを見ればいいのかわからなくなる。いわゆる対人恐怖症。 なぜか大学は無理だと考え、なぜか専門学校に入る。 モラトリアムで入ったようなもので、自分の人づきあいの苦手さや人の顔を見れない状況を考えると、とても就職する気にはならなかった。その反面、なぜかソニーがわたしを雇いに来ると信じる事でなんとか自分を保つようになる。

二年と半年の留年で卒院する。 何もなくなる。 空中ブランコでやってきたのを、やっと墜落できたような。 やっと崖を飛び越えずに落ちられたような。 あんまりよくない安堵感。

ほとんどひきこもり状態だったが、 友人がいた事や、彼らにドライブや旅行などに連れ出される事で、 かろうじて社会的ひきこもりの定義からは外れている。 ということは、ニートになる(ヤンキー型、立ちすくみ型、もしくはひきこもり型に定義される)。 ニートで20〜23歳を過ごす。 2001年の4月に寺の境内にて、友人から「やる気があるなら手伝う。やる気がないならもうほっとく」という主旨の事を言われて、アルバイトを探す事に。タウンワークで 2001年5月、3回目の面接で、工場で働く事になる。 2003年現在は週4のパートとして働く。 今もどこかしら「自分はくだらない」「死にたい」と思いながら生きている。

ひきこもったというより、ある状態に陥って、その結果ひきこもったと言ったほうが正しい。 それ以前に味わった事が思い出せない。 ひきこもっていた時に考えた事が、今の考えの基礎になっているような状態で、そこにこだわってしまう。 昔の思い出し方は「脳に障害があったかも」「発達障害だったかも」という形でしか引き出されない。 そうすると、ほとんどの思い出は「失敗」の経験になってくる。 もしくは「基本的信頼感がほしい」という願望。 そんなものは意識せずに築き上げられている石垣のようなもので、 幼少期にその石垣を親に築いてもらう事で、崩れないものになるのだと思う。 その石垣の上で、どのような城を建てるか考えたり、一度建てたものを壊して再構築するという気力が持てたりするのだ。 もし石垣から崩れ去った場合、 意識的に自分で築いた石垣は何度も崩れ、自ら崩したり(甘えたり)もするだろう。 その上に城を建てるという考えは起きる余地がない。 常に崩れ去る石垣を補強し続けなければならないのに、それすら壊れる事が明白である場合、 あきらめて荒れ地にしてしまうか、石だけが親のくれたものだからと、それに構い続けるか。 なぜ自分は親のくれたものを組成しきれず、すべてを捨てて、 一人で地面を歩いて、別の場所を探さなければならないのか。 全員がそうなら、考える必要も、怒る必要もなかっただろうか。 自分のなかに、肯定できる何かをひとつ見つけるだけでいいのかもしれない。 もう「原点を考えずに済む」「組んだ足場の事を忘れる」方法がほしい。 何度もスタート地点に戻らないでほしい。思考が。 進まない考えの、堂々巡りを。時間の無駄を。 単純に言えば「疑いの余地がない」過去と、今が欲しい。 真人間になりたい。

アルバイトを始めて、 ひきこもっていた頃には考えられない事があった。 「もうないだろう」と思っていた事。 だから、少しは悲観的ではなくなった。 バレンタインデーにチョコをもらった。 ホワイトデーにお返しした。 髪の毛が染まった。 ギター買った。 メンタルクリニックに行った。 携帯買った。 バイト先の人たちとプリクラ撮った。 携帯に女の人のメールアドレス登録できた。 不良っぽい服を着た。 薬を大量服用してしまった(バイト2週間休んだ)。 女の人を写真に撮れた(合法的に)。 釣りを始めた。 誕生日にプレゼントあげることができた( 50センチぐらいある、ぬいぐるみをあげた)。

けど、どこか、行けないところがあるのも確かで、 入れない場所「普通」の外郭をなぞっているだけにも思える。 昔よりは、にじり寄れているとは思う。 むしろ、このままなぞり続ける事で、入れない場所を締め上げ続ける事でしか、 普通にはなれないのかなぁと思う。 たき火をかこむ人たちを見て、 あれは多分あたたかいのだろう、何を笑っているのだろう、と、 渡れない崖から眺めて想像するしかない。 たぶん、自分の乏しいところに気付いて、へこみ続けるんだろう。

2007.4.29補記:やっぱり真人間にはなれそうにない。 根本的に、まともではないようだ。

2007.5.14補記:もはや童貞ではない。人生は本当にわからない。

2008.10.04補記:彼女ができて、タバコ吸うようになって、バンドもメンバーがそろって、それでもまだ人間ではないという感覚がずっとある。自分 が人にとっている態度が、そのまま返ってくるから、自分は人を大事にしていないし、自分も大事にしていない事がわかる。そこから、色々人の事を考えても、 自分の事すら考えていないから、軽く扱われているのだと思う。 重みがない。今の自分の言葉には、意味がない。したい事がないから、進む方向に力がこもらない。ベクトルもビジョンもない。こんな人間が誰を引っ張ってい けるだろうか。 間違ってもいいから、人を自分の欲で動かさないといけない。 そのために人の事を思わないといけない。 出発点が、もう取り返せない気がする。 見えてくるほど根が深い。 明るくなっていったはずだったのに、結局、満たされていない。 空洞な事に気づくばかりで、誰も案外そうなのだ。 とりあえずの埋め合わせのなかで、少しずつ忘れ去っていかないと、大人にはなれない。 車に乗りたい。就職したい。金がほしい。 そのために、人と絡み合いながら、手に取れるほどの、一番近くにある欲を見つけて、ひとつずつ、かなえていく事が必要だとも思う。 彼女を助けたい。彼女のひどい環境を変えてあげたい。 そのせいで、彼女の目が覚めて他の人に目移りしてもいいだろう。 その時、自分がぼろぼろになっていてもいいだろう。 今の、彼女のひどい環境のなかで、自分のような人間にしがみついている事を、 利用して、付き合い続ける卑怯さこそが、汚い。 後悔はしない。 人のためについえたい。 人間味のない人間のまま終わってしまってもいい。 誰にも理解されなくてもいい。 ごまかしは要らないのに、今更、不本意なまま生きるのはつらい。

2009.08.13補記: 彼女と別れることになった。 結婚はできないと思った。 今より上を望んでしまったのかもしれない。 ずっと自分は選ばれる立場だと思っていたが、選ぶ立場になりたくなった。 選ぶ立場だと思っていた彼女が、選ばれる立場になった。 色々なものが欲しくなった。 時間も金も欲しい。 そして、彼女にも同じように生きて欲しい。 でも、彼女はどうしても人の時間や金をとってしまう。 そのぶん、人と一緒に楽しむという事ができるので、それは偉いと思う。 しかし、あまりにも前に進まなくなってしまった。 自分が知らず知らずに、そういう姿勢になるように仕向けてしまったのかもしれない。 自分は、人を駄目にしてしまうのかもしれない。 悪いところを人に預けながら、 記憶を預けさせながら、先に進んでいく。 帰ってくるためかもしれないし、軽くなるためかもしれない。 彼女と重なって見えていた期待を、形のないものに戻す。 そう遠くない未来に、もう一度それを見て、歩く。 それだけなのにつらい。 引き剥がすのが悲しい。 直結している血管や温度を抜き取って、奪い去ってしまう事が怖い。 それが新しく誰かに息づく事が信じられないし、 そんな事があるとしたら、残酷だ。 自分は自分を裏切りたくない。そうするしかない。

2009.10.10補記:深く見えていた人間が浅くなったり、 よく考えていたはずなのに、あまり考えていないと思っていた人に指摘されたりする。 目移りしてしまう。

2010.8.14補記: 今はどうなのだろう。正社員になれそうなところまで、来ている気がするが、それも上の判断なので、結局のところは分からない。ただ、社員になりたいという事はみんなに知れ渡って、そういう流れができて、扱いが少し変わってきている。 まだ子供だが、もうすぐ33歳で、ちゃんと歳はとってしまうし、想像もできないが、死んでしまうのだ。 誰かが「まだまだだ」と言うなら手を貸してほしいという厚かましい気持ちもある。 いつも願い続けるのは大事だと考える。 こうなりたい、あれがほしい、ずっと願ってきた。 手に入れるたびに「自分にこんなものが得られるとは」と驚いてきた。 そうやって願って、その方向にちゃんと向かい、進むと、少し力を貸してくれるものが、どこからか集まってくるという不思議があり、それが肯定感というものなのかもしれないと思う。 それが力だと、うすうす分かってきた。最近はよく感じる。 手に入れたときには誰ともなく、日記やここ(ローカルのファイルです)に報告する癖がついていて、自分の循環を助けている。当たり前だと思わない事がいいのだと信じている。 人間ではない違和感は払拭できないままだ。 女性は苦手なままだ。 死にたいとは思わなくなった。 勉強と読書が大事だと思うようになった。 ただ、自分が年上の男性から見ると社員にしてもいいが、年下や同年代の女性から見ると、一緒に仕事すらしたくない挙動不審な人間に見えるのではないか、という事が悩みだ。 今のコミュニケーションができていない。 余裕のある人とは話せるが、自分の余裕で人と会話できていないということ。 まだ、なんだかんだ言って自信がないのだ。

2012.1.19補記: 社員になったが、 やっぱり人が苦手なままである。

2014.11.7補記: 社会的にはふつうの場所にいるが、人間としてはまだ自分を信じていない。 「みんなの子ども」として扱われているように思う。 あぶなすぎて放っておけないということ。 一生こうやって助けられて段をのぼるしかないのか、と思う。

2014.11.22補記:現代詩フォーラムに投稿した(今からする)。





散文(批評随筆小説等) ほんにんれき Copyright nemaru 2014-11-22 23:36:25
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