排出の快感
桐ヶ谷忍

何事においても、排出する事に快感を覚える。
排泄行為は言うまでもない。
お風呂も毎日一時間以上入って、汗をダラダラ流す。
風邪をひいたらラッキーだと喜ぶ。
鼻水を出す喜び、咳をして腹筋使って、わずかなりと脂肪を落とせる嬉しさ。
そして、当然ながら、一作出来上がった時の例えようもないほどの快楽。

カラッポに、なりたいのだと思う。
この身の内には、私を悩ませる重石がドンと腹の中心に据えられていて
その重石を取り除きたくて、少しでも削りたくて、排出を試みている。

私が自分を正確に語れる人間だったら、詩は書いてない。
私の思った事、感じた事は全てその重石に吸い取られてしまっているようなものだ。
私はいつだって自分を語れる才能に恵まれていない。
詩を書いて、読んでも、しばらくはその詩が自分の何を表しているのか
分からないほどだ。
心理分析のようにつらつらと眺めている時間がある。
もっとも、そんな難解な詩など書いた事は一度もないので、たいてい
なんだそんな簡単な事言うのに、これだけの文字数を使ったのか、
という結果に終わる。

「圧倒的な個」というものを書きたかった。それは今でももちろん書きたい。
他の追随を許さない、誰にも真似できない圧倒的な個性。
でも最近気が付いてきている。
私には「圧倒的な個」の資質はない。
どこまで行っても平凡で、有象無象の群集の一人でしかないという現実。
自分に期待をかけ過ぎたらしくて、気が付くのが遅れた。
そんな思いは中二で捨てるべきだったのだ。

他方、私は私という平平凡凡な個を通して、そこら辺に溢れている平平凡凡の人たちの
代弁者になりたいとも思っている。
おこがましい願望かもしけないけれど、圧倒的な個のない人間には
そのくらいの野望は許されてよいだろうと誰にともなく弁明している。

けれど、重石がある。
私は本当に、何を思い何を感じたのか言葉にするのが
致命的に下手糞なのだ。
日常生活は上っ面で生きている。
自分が話さなくても良いようにお喋りな人をそばに置く。
こうして書く時だけ、自分のペースで重石に向き合えるので
書くのは好きだ。

ただ、詩を書く時は重石はあまり関係ない。
数行の言葉の連なりであったり、情景が、降ってきて、それを書き留めている。
私はそれを詩と呼んでいる。
詩を自分で、何が言いたかったのか読み解けた時、重石は少し削られた感じがする。
そうすると、腹の中がわずかに軽くなる。
軽くなるという事はつまり、カラッポに近づいているのだ。
排出した快感が生まれる。

もっとたくさん、詩が書きたいなあと思いつつ。
オチもなくてすみません。


散文(批評随筆小説等) 排出の快感 Copyright 桐ヶ谷忍 2014-11-08 12:00:43
notebook Home