人生への愛
葉leaf

 私は別に「人生を愛することが必要である」とか「人生を愛せ」と言いたいのではない。様々なことに開眼していくタイプの人間であるならば、自然と「人生への愛」に目覚めるはずであるし、そのようなところにも大きな詩の源泉があるのではないか、ということを言いたいのである。
 詩は何も個人が自己表現して個人レベルで自己完結するものとは限らない。自分のほとばしる感情、ほとばしる思念を叫び声のように発するだけのものとは限らない。むしろ、詩は相互作用の中で書かれるものでもある。他者や自然や社会からの刺激を楽しみ、他者や自然や社会へ愛情を返していく、そのような呼応の中で自然と詩は生まれるものであって、つまりは人生の面白さに興を得て人生を愛しながら詩人は詩を書くのである。
 私はここで特に「実存」などという言葉を使おうとは思わない。詩を書く者はただの人間であってよろしい。むしろ、実存の淵だけではなく、人間であることによって当然に直面していく様々な平凡な出来事に人間は反応していくのである。平凡でありありきたりであり、しかし限りない愛情でもって眺められている無数の生活の事物、そこに詩の源泉はある。
 詩は特に瞬間をとらえる必要はない。当然、詩は物語であってもいい。瞬間でも物語でもない時間の錯綜物、つまり人生を詩は捉えるのであるから。そして詩を書く者は幸福である必要もないし、不幸である必要もない。感情の正負は問題ではなく、いかに人生を愛しているかによって書かれる詩は変わってくるのではないだろうか。どんな悲しみであっても、どんな直視しがたい出来事であっても、くまなく愛することができる、そういう人生への愛でもって、人は悲しみや惨事をも詩にすることができる。だからもちろん快不快も大きな問題ではない。どんなに不快なことであっても、人生に対する遍在する愛をもってすれば詩の題材になりうるのである。
 人間は自分の人生しか生きることができない。人間に与えられているのは、厳密には自分の人生それだけである。その自分の人生は限りなく刺激に満ちているし、限りなく抑揚に満ちているし、限りなくリズミカルである。人生が自分に与えてくるものに対し、素直に愛情を返していくということ。そしてその愛情が捉える人生の平凡な諸事を、詩の題材にしていくということ。こんな当たり前のことで詩は十分成立するし、与えられた唯一の人生を最大限愛さないでいったい何を愛するというのだろう。


散文(批評随筆小説等) 人生への愛 Copyright 葉leaf 2014-09-20 11:53:53
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