夜になればかえるは
Debby

# どこへ行くの?

 彼は車の運転がとても上手だったの、とあなたが言ったとき。僕らの街のどこかに、ささやかな亀裂が走る音がした。それは、きっとビルの下に大した意味も無く存在するあの隙間で、一匹の蛙だけが聞いた音で、でもそれを分かち合いたいと僕たちはずっと思っていたのだけれど。彼はとても車の運転が上手だったの、彼女はそう繰り返した。
 とても遠い場所で飛行機が落ちていた。浅黒い肌をした男が、ずっとミュートをかけたままアコースティックギターを弾いていた。深海魚が振り返った海の底みたいな気持ちだったので、ずっと遠くまで歌声が響いていたので。

# ぼくが間違っていたよ

 友達の声が聞きたい夜は全部間違っている、そういうことにやっと気づいた。この世の誰にも、深夜に誰かをたたき起こす権利なんてないということに、今更僕たちは気づかなきゃいけなかった。嫌な夢を見たあとのあの気持ちは君のもので、僕のものではなかった。いつの間にかそうなってしまったのかもしれない、と思った後で、やっぱりそれは間違っていたと気づいた。君は君のもので、僕は僕のもので、ビル街の片隅で鳴くかえるの鳴き声を伝えたいと思った時、人はもう詩でも書くしかない。

# あなたがいてくれたから

 とても親切だった人からの便りが途絶えて、僕たちの街は雪に覆われた。人々は家を捨てて暖かな故郷に帰っていってしまった。暖炉にくべた白樺の枝が弾けるたびに、窓が一つ一つ木板で打ち付けられた。祖父のことを考えた、降りしきる雪の中で、絶望的な塹壕戦の中で、彼が考えていたこと。あなたがいてくれたから、と思った。伝えることも出来た。そうはしなかった。そうはしなかった全てが、僕たちの街を埋め立てた。
 便りをください、とかえるが一声鳴いた。とても寒い夜だった。

# 平和公園は爆撃された

 水の枯れた噴水のそばに寝転がって、空を眺めていた。いずれ爆撃機がやってくる、と友達は言った。今度は外すなよ、と僕は答えた。僕たちはいつまでも空を見ていた。どこという特徴もない空だった、紺色は安っぽく、たなびく雲は何かの間違いみたいな感じがした。流しのベース弾きも、燕尾服に身を包んだ楽隊も来なかった。子どもたちの声すら聴こえなかった。僕たちはいつまでも爆撃を待ち続けた。
 ずっと昔、豊かな水がこの街にあったころ、僕たちは夏の暑さをこの噴水の周りでしのいだものだ。一晩中町を転げまわって、最後にそこで眠りにつくときにはいつも爆撃機のことを考えた。
 かえるの泣き声がぴたりと止んだ。

# 喜びについて

 僕は僕なりにやってきたつもりなんです、僕は僕の正義に従って、いや時にはそれすら守れないことだってあったけれど、それでもそれなりの切実さを持って生きてきたつもりなんです。
 順番がやってきて、演台に上がったかえるはそう切り出した。舞台の裾では足のない羊が所在なさげに自分の順番を待っていた。
 観衆は収穫を待つ麦畑だった。それはどこまでもどこまでも広がっていて、誰もがとても悲しそうだった。
 観衆はどこまでも続くビル街だった。非常階段の片隅で、誰かが煙草を吸っていた。誰もがとても悲しそうだった。
 早くしろ、と羊は僕に向かって口の形を作った。とにかくでっち上げて、終わらせろ。おまえの人生はいつもそうだったろう、と彼の三日月型の目が伝えていた。
 子どもたちはキャンディを欲しがっていた、とても運転の上手い男の車に乗せられて、彼らは一人残らずどこかへ連れていかれてしまった。
 そこはきっとここより暖かな場所だ。雪の降らない街だ。
 ビルが崩れ始めた。羊は逃げ出すことが出来なかった。爆撃機が来たんだ、と彼は言った。彼女のことを考えた。夜を走る車の助手席で、彼女は眠っていた。子どもたちも眠っていた。男が最後のカーヴを無事に曲がる音がした。
 かえるはもう鳴かなかった。


自由詩 夜になればかえるは Copyright Debby 2014-09-16 07:35:19
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