旧約蝶々
やまうちあつし

 青年は、生まれながらにして沼の番人だった。訳も知らぬまま、彼はこれまでの人生を底のない一つの沼を守ることだけに費やしてきた。沼のほとりで乞食同然の生活を続けながら、近づこうとする者を追い払い続けるのである。
 訪れる者の多くは、底無し沼を気味悪がって処理しようとする。ある者は廃物処理に有効利用しようと提案し、またある者は我が身を持て余し投身を試みた。その度に青年は強固に首を振らねばならなかった。この沼は、誰かが手を触れてよいものではないから。触れないままで、保存されるべきものだから。
 ある時、一人の少女がその沼を訪れた。少女は、沼よりもその傍らで暮らす青年について、提案があった。言葉とともに差し出されたパンと葡萄酒を、青年は地面に叩き付け、声を荒げた。それ以後、彼に声をかける者はなくなった。
 望みどおりの静寂の日々の中、青年は痩せこけ、衰弱していった。それでも彼は、使命を捨てはしなかった。人々は噂した。奴は、生きながらにして底無し沼に呑まれているんだ。
 ある夜、久方ぶりに来訪者があった。眩いばかりの光を伴って現れたその人を、青年は眠気と空腹で朦朧としながら見上げた。沼に落し物をしてしまったので、探させてほしいという。普段なら有無を言わさず追い返すところだが、なぜかその時はすんなりと承諾した。客人は光を放ちながら歩を進め身をかがめると、底無し沼にずぶずぶと右腕を差し入れた。しばらく沼の中をまさぐっていたが、やがて泥水から右腕を引き抜くと、その指先につまんでいたのは、光輝く一匹の蝶――。その輝きときたら、沼からつまみ上げたその人自身をも凌ぐほどで、青年は思わず顔を覆った。やがて蝶をつまんでいたその人の右手が弧を描き、蝶は宙へと放り出される。眩い光を振り撒きながら、蝶はヒラヒラ上昇していく。呆然と見上げる青年の視界には、満天の星空。
 次の日の朝、青年は沼の周囲の雑草をむしり終えると、旅の仕度を整えた。伸び放題の髭を剃り、黴の生えたパンを食べ、久しく放っておいたマントを身につけた。彼の役目は終わったかに見えた。けれども実は始まっていた。彼は訪れるいくつの街で、この沼のことを話すだろう。そしてどれだけの人がこの沼を訪れ、どれだけの蝶が旅立ってゆくだろう。
 旅に出た青年の名前は、すぐに忘れられた。


自由詩 旧約蝶々 Copyright やまうちあつし 2014-09-10 22:07:33
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