笛吹き少年の行くえ(3)
Giton

下書稿(四)手入れ(2)。ルビはすべて編集者。草稿には、「屈」に「山」カンムリの字が書かれている。読みは、他の草稿から「いはや[イワヤ]」。よって、「窟」に作る。『文語詩稿五十篇』『文語詩稿一百篇』は、それぞれ作者が表紙をつけてまとめていた定稿ファイルの題名。森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,p.375. 森荘已池(実名:森佐一)は、宮澤賢治の10歳年下の詩友で、賢治との交友を描いた自伝小説『店頭』で直木賞受賞。http://www.tohoku21.net/kagura/history/iwate_yamabushi.html「光悦本(嵯峨本)」は、17世紀はじめに、京都嵯峨の豪商・角倉素庵が琳派の本阿弥光悦・俵屋宗達の協力で出版した活字印刷書籍。富樫均「雪峡」,pp.226-227,in: 宮沢賢治研究会・編『宮沢賢治 文語詩の森・第三集』,2002,柏プラーノ,pp.224-231.なお、冬至祭祀の関連を補っておきますと、「1年のうちで最も太陽の力が弱まる時期に、その太陽の再来と生命の再生を願って神威を招き迎え、生命力の強化を祈願した鎮魂の儀式が、神楽の起源です。」
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   【3】 あやしくも鳴るやみ神楽


   雪 峡*1

 ちりのごと小鳥なきすぎ
 ほこ杉のかひの奥より
 あやしくも鳴るやみ神楽
 いみじくも鳴るやみ神楽

 たゞ深し天の青原
 雲が燃す白金環と
 白金の黒のいはや*2
 日天子せ出でたまふ


この「雪峡」は、『文語詩稿五十篇』にも『文語詩稿一百篇』にも収録*3されていない未定稿作品ですが、(了)印による第一段階の“推敲完了”を経ています。
くわしく言いますと、この作品には「下書稿(一)」から「下書稿(四)」までの4枚の草稿があって、それぞれが何段かの手入れを加えられています。推敲の過程をたどって突き合せれば、時間的順序を確定することができ、この(一)〜(四)の順であることが判明しています。そして、↑上に挙げたのは「下書稿(四)手入れ(2)」であり、最終形テキストとして、『新校本全集』の本文に採用されているものです。

しかし、(了)印は、「下書稿(三)」の手入れ形に対して付けられています。

つまり、この最終形は、第一段階の完成稿に対して、さらに手が加えられた途中のすがた──もし作者が病死しなければ、さらに手が加えられていたはずのもの──と言えるのでしょう。

そのように考えれば、↑このテキストを、最終的な定稿であるかのように絶対視することはできない、と私たちは思わなくてはなりません。。。

第1連で、矛のように突き立った杉林の峡谷の奥から聞こえてくる神楽かぐらの音が「あやしくも鳴る」「いみじくも鳴る」と表現されます。

そして、第2連では、この神楽の音を背景に、雲のうしろに隠れていた太陽(日天子)が、あわてて走るように出てくるさまが描かれます。

ところで、第1連、3,4行目は、「やみ神楽」なのか?「鳴るや み神楽」なのか?
音数のリズムから考えると:

 あやしくも 鳴るや み神楽
 いみじくも 鳴るや み神楽

と切って読むのが正しいようです。

しかし、 森氏が笑い話として書いているのですが*4、この詩を読んで「岩手県には闇神楽というものがあるのか?」と、まじめに問い合わせる人が多いそうです(笑)。じっさい、「‥鳴る やみ神楽」と読みたくなるくらい、この詩の神楽は、いかにも恐ろしげで、おどろおどろしいイメージを与えるのです。

しかも、「みかぐら」と読んで安心していることはできません。

じつは、「御神楽(みかぐら)」とは、宮中(皇居)の賢所で舞われる神楽のことで、1947年までは、皇室祭祀令(1908年)に定められていたそうです。「御神楽」に対して、宮中以外の神楽は「里神楽(さとかぐら)」と言います。
そこで、岩手県の神楽について少し調べてみると、修験者の伝える山伏神楽が圧倒的に多いようです:

「岩手県内で最も数が多いのが山伏神楽です。特に早池峰山を霊場とする山伏が伝承した早池峰系神楽は、花巻市を中心に40団体以上にものぼります。」

「岳、大償の両神楽は、総称して『早池峰神楽』と呼ばれています。」「岳の早池峰神社に文禄4(1595)年の記録がある獅子頭が残されており、大償の別当へ伝えられたという神楽伝授書の控えの巻物には、長亨2(1488)年の銘があることから、この時代には、すでに神楽が伝承されていたことがわかります。」

「山伏神楽の特徴としては、獅子頭自体に神の力が載り、堂々と現れるものと考え、権現様と呼び、奉じます。以前は、神楽の集団が旦那場を回り、門ごとに権現舞を舞って神楽を演じていました。早池峰神楽では、この慣行が『回り神楽』『通り神楽』として昭和初期まで行われていました。」*5

つまり、神楽は神社で舞うだけでなく、かつての鹿しし踊り、剣ばいや、獅子舞いがそうであったように、町中をめぐって門ごとに演じたのです。

ところで、この「雪峡」を扱ったおそらく唯一の論文で、富樫均氏は、この“神楽”について、つぎのような理解を示しています:

「神楽は日本の国に最も古くから伝わる神事芸能である。光悦本謡曲・三輪*6に『先は磐戸の其のはじめ、かくれし神を出さんとて、八百万の神あそび、これぞかくらのはじめなる』とあるように、そのはじまりは天岩戸伝説に由来するといわれる。」神楽の起源は、「山の洞窟に隠れた太陽を呼び出す」招日伝説とつながり、「民俗学的には『一陽来復』を願う冬至祭祀との関連が深い」*7

神楽の起源を、『古事記』『日本書紀』にある天岩戸伝説に結びつける由来譚は、たいへん一般的なものです。しかし、そもそも天岩戸伝説の天鈿女命あまのうずめのみことは、日本で最も古い芸能人なわけですからw、‥神楽にかぎらず、あらゆる日本の古典芸能が、もとは天岩戸に由来するのだと主張しているようです。

それはともかく、この神楽の由来譚は、宮沢賢治も聞いていたでしょうし、第1連の神楽と、第2連の太陽が雲から顔を出すシーンの結びつきは、天岩戸伝説を意識したものと考えても、まちがえとは言えないでしょう。つまり、↑冨樫氏の読みは、まずまず妥当なところなのかもしれません。*8

しかし、それにしては、第1連の「み神楽」は、おぞましすぎはしないでしょうか?
しかも、それが宮中祭祀だということになれば‥‥

「いみじくも」は、“すばらしくも”という意味にも取れなくはありませんが、「忌みじ」のもともとの意味は、「忌む」、つまり神々をタブーとして恐れることから来ています。

雲から「奔り出て」くる太陽の姿も、神々しいというよりは、岩戸を突き破って転げ落ちてくるようで、“正しさ”の仮面をかなぐり棄てた破壊力のイメージではないでしょうか?

ともかく、この詩は、手放しで喜べない要素をたたえています。


そこで、第2連に現れた「白金環」と「白金黒」という用語について、説明しておいたほうがよいでしょう(つづく)
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*1 下書稿(四)手入れ(2)。ルビはすべて編集者。
*2 草稿には、「屈」に「山」カンムリの字が書かれている。読みは、他の草稿から「いはや[イワヤ]」。よって、「窟」に作る。
*3 『文語詩稿五十篇』『文語詩稿一百篇』は、それぞれ作者が表紙をつけてまとめていた定稿ファイルの題名。
*4 森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,p.375. 森荘已池(実名:森佐一)は、宮澤賢治の10歳年下の詩友で、賢治との交友を描いた自伝小説『店頭』で直木賞受賞。
*5 http://www.tohoku21.net/kagura/history/iwate_yamabushi.html
*6 「光悦本(嵯峨本)」は、17世紀はじめに、京都嵯峨の豪商・角倉素庵が琳派の本阿弥光悦・俵屋宗達の協力で出版した活字印刷書籍。
*7 富樫均「雪峡」,pp.226-227,in: 宮沢賢治研究会・編『宮沢賢治 文語詩の森・第三集』,2002,柏プラーノ,pp.224-231.
*8 なお、冬至祭祀の関連を補っておきますと、「1年のうちで最も太陽の力が弱まる時期に、その太陽の再来と生命の再生を願って神威を招き迎え、生命力の強化を祈願した鎮魂の儀式が、神楽の起源です。」



散文(批評随筆小説等) 笛吹き少年の行くえ(3) Copyright Giton 2014-09-06 21:17:16
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宮沢賢治詩の分析と鑑賞