続・きみの言語
ハァモニィベル
木漏れ日から、ふと宇宙を直観するような時がある。
それとよく似た体験を、―― 作者としてコメントを受けたとき
作品を見直しながら、ふと―― していることがある。
そんな時は、たいてい、その作品と連鎖的な もうひとつ別の作品が浮かんでくることが多い。
白いコンクリートの柱の影から少年がひとり、じっと私を見ている。思いつめた瞳。
少年は意を決して走ってくると 握りしめていた紙切れを私に手渡して駈けてゆく。
私は、その紙片を開いて読む。そこには、いかにも論理的デスと言いた気な、リクツな意匠を借りながら、
だが誠実に、いっしょうけんめいな彼の思いのたけが綴られている。
>「アウア」という言葉には、もっと踏み込んでもいいのではないか。
>これが主題だし、もっと言葉を尽くしてもいいんじゃないか。
>「アウア」という言葉を飾ったり、説明したりしてもいいんじゃないか。
詩としては過剰なのに、なぜ其処は踏み込んで描かないの?と。
そう彼は言うのだ。
もっと彼女の姿を、彼女の苦しみを、彼女を見てる人物の心を、と。
そう彼は言うのだ。
どうして、もっと
あなたの中で、言葉にしてくれないの?と。
〈苦悩の存在〉は、―あなたの言葉になりたいのに・・・。
もっと、もっと、言葉にして欲しいのに。と ――。
眼の前に、
抱きしめて言葉にしてほしいものが在る。
彼のくれた紙片には、こうも書かれていた。
>もしかしたら、アウアに直面した詩人というのは、初めてかもしれない。
>だから、そういう動機自体が素晴らしいものであることを考えると、
>それを、誠実に作品の中で歌い上げるということこそ、詩だと思います。
アウアに直面するどころか、自分たちが〈技巧アウア〉になってしまった「詩人」への批判が
私にはあるのだと言いたいが、言われてもおそらく、少年は戸惑うだろう
それでも、私は、逆に今度は、
〈魂の籠もったアウア〉にたいして、――直面するどころか看過して平気でいる「詩人」たちのことを…
奇しくも、少年のこの手紙の言葉が …反映しているように思えて興味深い
>なんだか、批判的になってしまって、ごめんなさい。
そう最後に締めくくられた彼の手紙へ
私は、紙とペンを取り出して、返事を
書いてみた ――
《 黒い瞳の少年へ
コメントへのお礼
わたしは、読んでもらえたら、それで十分嬉しい。
そこに敢えてコメントを残してくれるのは尚のこと嬉しい。
それが、たとえ、
「感性」のレベルに留まる、だれでも書けるような受動的な《感想》であっても。
そこにも、私は〈詩〉を発見するでしょう。
そしてそれが、
次のレベルである《意見》 ――これは単に受動的なだけでなく思考を加えなければ言えない
が ――とくに、否定的な意見を述べてしまうと、根拠が付属する分、パンチ力が増すから、
相手の気分を害するリスクが高まること、それと、もっと本質的なリスクとして、
反駁される可能性を引き受けねばならないこと、この両方を回避したいという極めて姑息な理由で
やぱっり穏便に《感想》を装わせた褒めるような皮肉であっても。
(実際、批評を書けば、それが批評の対象になるから、覚悟も能力も必要となるだろう。蒙昧な書手もいるケド)
だから、尚更、
姑息な心域を超えてまで、《意見》を述べてくれるひとには、一層の喜びと敬意をもって迎えたい。
(但、ディスることしかできない自己顕示型無能者は除いてね。もしもそんな人が実際にいればの話だけど)
また、一層更に、
理解力と、表現力と、真の思いやりとを伴った批評(クリティック)なら、なおさら、
それこそ最高に大歓迎だ。そう私は思っています。
そして、
小さな、懸命なアウアでも。
わたしもまた、それを懸命に読むでしょう。》
――白い紙に、こうしたためた私は、
再び少年に出逢ったときに手渡せるよう
このメモをそっと小さく畳んで
ポケットの中にしまった。