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結論から言いますと、現在までのところ、
「羅須地人協会」と満蒙開拓移民団との直接の繋がりを推測させるような資料は見出されておらず、
両者のあいだには繋がりは存在しなかったと思われます。
というのは、(ここからは私見ですが)宮沢賢治自身、“満蒙開拓”に関して、?高等農林在学中は人並みに関心を抱き、?その後は次第に関心を薄くし、?晩年には、日本人の大陸開拓ないし大陸進出ということに対して疑問を表明
*1するようにまでなったからです。
注:
「羅須地人協会」:宮澤賢治が、花巻農学校を退職した翌年1927年はじめから1928年ころまで、花巻川口村下根子の自宅で開いていた農民私塾。地元マスコミに取り上げられたことから思想警察の取調べを受け、にもかかわらず労働農民党稗和支部の幹部とも交流がつづいたため、1928年3月15日の共産党大弾圧(三・一五事件)は甚大な打撃となったと思われ、この時期に事実上活動休止に追い込まれている(伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』,2001,洋々社,pp.7f,101f.)。
「満蒙開拓移民団」:1931年の満州事変以降、1945年の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称(団体名ではない)。1932年から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住した(Wikipedia"満州国")
その原因は、
1 ひとつには、高等農林の同級生など(佐々木又治ら)が卒業後外地へ派遣されて辛酸を舐めて帰還したことがたびたびあったようです。つまり、外地殖民は、ラッパに踊らされるだけ──というような感想を抱いたようです。(資料:書簡類)
2 宮澤賢治が傾倒した日蓮主義団体
*2『国柱会』は、満蒙開拓ともつながりがあったと思われますが、賢治は多額の寄付をして入会し、家出してまで身を預けようとしたにもかかわらず、『国柱会』は賢治を相手にせず、「そういう家出人は多い」などと言って追い返そうとし、昼休みのビラまきに動員した程度のかかわりしか持たなかったのです。賢治は、代表者・田中智学との面会は一度も許されませんでした。後年、宮澤賢治が死後に有名になってから寄稿に応じた国柱会理事・高知尾智耀の回想記(賢治の国柱会への私淑の裏づけとされる資料)も、よく読んでみれば、多数の信徒のひとりと、申し分け程度に短時間面会して一般的な訓話を垂れた程度の内容でしかないのです。つまり、賢治は、国柱会を通じて満蒙開拓ともつながりをもつほどの関与を、許されていなかったということです。
また、賢治自身、1919年に田中智学の講演を聴いた時には、たった25分で退場したと自ら書簡に書いているなど、宮澤賢治の“傾倒”そのものが、自己の法華経信仰の外形を整えるための装いでなかったかどうか、私は疑問に思っています。いずれにしろ、今後の調査の余地が大きい部分です。
3 1926.1.30-3.23 に出講した『岩手国民高等学校』(3ヶ月程度のイベント的な集中講義;体操,唱歌等を伴う)は、岩手県教育会・県農会聯合主催、↓下記の「国民高等学校協会」、および後に満蒙開拓移民に深く関与した加藤完治らとの関係は不明です。
「国民高等学校協会」は、「日本における農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史」(
http://www.phoenix-c.or.jp/~m-ecofar/167.html)によると:
〔ホルマンの「国民高等学校と農村文明」を翻訳した那須皓らが呼びかけて国民高等学校協会が結成され、1926年、茨城県宍戸町(現支部町)に「日本国民高等学校」が設立された。山形自治講習所の所長だった加藤完治が校長、農業報国連盟理事長や全国農業会会長も務めた石黒忠篤が理事長となった。皇道主義的農本主義に基づいており、後に水戸市に移転し「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」というものものしい名称に改変され、満州へ数万人の青少年を送り込んだ。加藤完治は戦犯になることを免れ、戦後46年に白河報徳開拓農業組合長となり、53年に「日本高等国民学校」と改名して国民高等学校を再開し、これは現在も「日本農業実践学校」として継続している。〕
とあって、皇道主義的農本主義に基づく青年訓練施設で、「満州へ数万人の青少年を送り込んだ」と言います。
しかし、宮澤賢治が、加藤完治その他の人物と接触した形跡はなく、『岩手国民高等学校』の主事(実質的統括者)を勤めた高野一司(県社会教育主事)に対しては、「偽善的ナル主事」とメモに書き残しており、雪の上で組打ちの喧嘩をしたとの証言があります。約1年後に発足した『羅須地人協会』との関わりも、資料的に存在しません。
賢治の担当した講義は「農民芸術」で、主催者側からは関心を持たれていなかったのではないかと思います。たまたま、『岩手国民高等学校』の実施された場所が花巻農学校だったので、同校の教諭らも動員して講義させたというだけのことではないでしょうか。同じことは賢治の方の姿勢にも言えて、「農民芸術」の講義内容の前半は、時間稼ぎとしか思われない“芸術”と無関係な内容なのです。ただ、講義の後半で、賢治は独自の芸術論を説いたことから(前半の時間稼ぎをしながら準備・構想したものでしょう
*3)、その講義録等が、賢治研究者によって重要文献とされているにすぎません。
4 満蒙開拓移民が本格化したのは、Wikipedia によれば1931年の満州事変以降であり、宮澤賢治は、この年前半は東北砕石工場(農耕用石灰を生産していた)の技師としてセールスに東奔西走しており、教え子と交流する暇もない状態であり、その9月に出張先で倒れ、そのまま1933年に永眠するまで病床にありました。したがって、時期的に関わりを持つことはできないタイミングだったと言えます。
5 晩年の『文語詩稿五十篇』に、次の作品があります:
鼓者
*4
いたつきてゆめみなやみし、
(冬なりき)誰ともしらず、
そのかみの高麗の軍楽、
うち鼓して まちを過ぎりぬ
かの線の 工事了りて
あるものは みちにさらばひ
あるものは 火をはなつてふ
いづちにか ひとは去りけん
第1連は、鼓をたたきながら表通りを過ぎてゆく朝鮮人飴売りの特有のリズム(♪♪♬の三拍子)を病床で聴き、強く印象に残り、その民族のいにしえの行軍のありさまを想ったという内容。
第2連は、内地に出稼ぎに来た朝鮮人工夫たちが、従事していた鉄道工事が終ると、ほかに雇ってくれるところもなく、道ばたで野宿したり、放火したりして物議を醸していたが、いつのまにかどこかへ去ってしまったという内容。
この当時(1930年前後)の一般的な新聞雑誌の論調を見たことのある者ならば、上の賢治の詩を見て、驚きを禁じえないのです。戦後ならば、こういう感想を持つ人も稀ではないでしょうけれども、1930年当時にそれはほとんどありえない(柳宗悦などわずかな例外があるきり)ことだったと思います。
つまり、宮沢賢治は晩年においては、朝鮮にしろ満州にしろ、外地の異民族に対して、日本人一般とは隔たった同情的な視線を持っており、また、開拓移民を発揚する言説に対しては、まゆつばの気持ちを持っていたと思われるのです。
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