未明、みえないまま
渡邉建志

書かなくては、と一年ぐらい思って、書けなくて、私よりも書くべき人たちがいるような気がして、(待っていたのかもしれない)、未明、眠れなくて、アイスクリームを食べたら目が覚めてしまった、薄暗い。こんな朝。今しかないような気がして。床に寝ころびながら、マスカットの匂いが口の中に、背中には、冷たさが広がって、今しか。


ろくでもないものしか書けないだろう、知ってる。


嘉村さんの詩について、私より書くべき人はたくさんいる、という、直感と実感がある。散文についてはながらくファンだったし、話し言葉と書き言葉の間の、破壊的な行き来のような、何でもありというかんじは、それ以来どこでも読んだことがないものだった。いまだに、あのころの日記の本が出ないかなあと思う。私には、彼女の詩は、ながらく分からなかった。というよりも、私が一般に詩読みではないだけなのかもしれなかった。たぶん、詩の読者にはいろんな人がいて、「月に二十冊読破しています」という人もいれば、全く読める詩以外は読めない人もいるだろうと思って、私は完全なる後者で、ただ、その波長が合っていなかっただけなのかもしれなかった。けれど、私には、雰囲気が整っているとは分かる、上手いなあと思う、だけど、その中心に何があるのかが、分からなかった。何が書かれようとしてそこにあるのかが。一つの雰囲気、空気があって、それを引き継いで、次の空気や雰囲気が作られていって、それは完成されていく、でもその中心に。たとえば、雰囲気や、空気を書きたかったという、それ本体が切実さだという場合もあるだろうけれど、(私がいまだ詩のよなものを書こうとしては失敗する理由も、結局言いたいことなどない、ただ作りたい雰囲気がある、というところなのだけれど)、でもただそれをされたいわけでもなさそうな気がしていた。


いつからか、ふっと、その雰囲気や空気の中に、声が聴きとれるような気がしてきて、いうなれば、光が私の可視の域の色になってきたような、音が私の可聴の域の高さに入ってきたような、(それが詩人の変化なのか、うけとる私の変化なのかわからないけれど)気がしてきていた。いま手元に暗い色の薄い本があって、この本も私なんかの手元にあるべきではないような気がして、ずっと、持ち歩いているのだけれど、暗い表紙の向こうに、「誰?」と、明確な手触りのある声で呼んでいて、ほとんど見えないのだけれど、私にはそれが見えたり聞こえたりするような気がする。(その「誰」の呼び声が、私へではないような気がしている。)


わからない(それが、あの固有名詞たちのせいだったのか)(それらは、とてもえぐるような、ときにえぐみのある、何かのように思われた)(いまそれらは優しい声できこえる


「ポルカドット」
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カモミールとか
ベルガモットだとか
とても香りの良い会話

何の理由もなく、とても香りの良い会話ですね。と、こころから思える、そんな嬉しさ。あ、共振できた、と思ったのが、この時だったかもしれない。散文のファンだった、という私が、好きだったのが、その跳ねるような文体のなかに、一緒に跳ねさせられる、跳ねさせてもらえるような、ドキドキ感だとか、振り回され感だとか、そういう共振的な動きがあって、ああ、生きているな、と思えたのだけれど、詩人の詩のなかに、それと同じものをこの時初めて感じたのかもしれなかった。「とか、だとか」のやわらかさと、「とても」のやわらかさは、かつて感じた鋭敏な尖りと、ちがうほうこうへ向いていて、なんだかとてもほっとするし、これはすべてが語り口調で書かれているというわけではむしろないのに、あたたかな語りを感じる。


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いつだって
森を燃やすこともできたし

「て」とか「し」だとか、つねに次に話されることを、耳をそばだてて聞こうとする。こんな話がされている時間は、夜だろうと思っていた。でも、これは未明だと思った、今、曇った朝。「暖かい食卓を作ることだって」。くりかえされる、「だって」がこんなにあたたかく、つよく、心に響く。かってに思う、感情がこもっているって。かってに思って、かってにその声が響いて、いる。見えないけれども、ある。


「黎明」
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とても白いのだけれど、とても夜だと思う。気の利いたことなんて言えないけれど、わたしはこの詩が好きだ。

何かにすがりたいし
君に逢いに行きたい

そういわれたら、そうだよね、すがりたいし、君にも逢いに行きたいよね、とやっぱりおもうし、そう思わない手があるとは思えない。

これ以上ないくらい丸まって眠って
透き通ったものと
いい匂いのするものと
温かいものを少しずつくっつけたりして
昏鐘が呪文のように聞こえるから
きっとうまくいく
夜だって出し抜けるよ

そういわれたら、そうだよね、きっとうまくいくし、夜だって出し抜けないわけないよ、とやっぱりおもうし、そう思わない手はやっぱりないと思う。すごく、距離が近い。この言葉がはかれる口と、読む私の耳との。かつて、詩人の距離はもうすこし遠い感じがした、あるいはかなり。こんなに近い場所に、抵抗もなく、来てくれるとは思ってなかった。近い場所でものが言われるとき、それが気取っていたり、わざわざ口調を作っていたりすると、なんだか「詩気取りやがって!」って思うのが世の常(わたしの常)だけれど、ここに語られるすべての言葉が、べつに私の口振りと近いわけでも何でもないのに、水みたいに抵抗ない。なんでだろう。むりやり文を繋げている感もなく、「て」、「と」、「と」、「て」ってつながって、理由の「から」は論理的な理由になってなくて(もっとたぶん違う次元での理由で)、「よ」って言われてしまう。でも、そこに、何の無理もないと思ってしまう。「いい匂い」はいい匂いだし、「温かいもの」は温かいものだし、「呪文」は呪文だな、って思う。そうやって、無抵抗に受け入れてしまえるのは、なんだろう、私の問題なのか(たとえば世代感とか)、それともやっぱり詩人のまといえた遍在的な感覚に帰着するのだろうか。たぶんそうだろう。いやきっと。

ずっと話し言葉で、とても大切なひとの耳元にささやきかけるような(そういう詩が私はずっと書きたかった、そして理想的な形がここに在ってしまった)、おんどでつづられていくこの詩の、最後に、

それはもうすぐだから
瞬きみたいに
君が目を閉じて
開けて
そうすれば
嘘みたいに夜は遠いって
君に言うから

「嘘みたいに夜は遠いって/君に言うから」っていう、胸を衝かれる一節があって、たぶん、夜だし、君は夜だということを知らない(ひょっとしたら本当に夜じゃないのかもしれない)、そしてたぶん、「君」のたぶんみみもとで「言」われる「夜は遠い」(あるいは「嘘みたいに夜は遠い」)のことだけを、「君」は信じるんだろうと思って。見えなくて。詩人の声しか、聞こえなくて、それだけが、たよりで。見えないことにこそ、希望がより眩しくあって。それが夜だから見えないのか、それとも見えない光に囲まれて眩しくて、見えないのか。手を引いて、私の目でいてくれて、頼り切っていたい、「もうすぐだから」というこの励ましは、理由はわからないけれど、とても近くにあるものだから。



「一つは行き、一つは絶えた」
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「ばんざい」の繰り返しに、「つぎつぎ」と運ばれて、運ばれていった先に、ほおり投げられた花火がある。これだけ「だ」、「だ」と言っておいて、最後に「花火だ」と言わないで。ほおり投げられたままで、夢のような次の聯は過ぎていき、最後の「歌うように朽ちるのか」まで、遮られた花火の轟音の、あるいは小さな響きの、なかで。「ばんざい」の声から、精巧な骨のなる音まで。


「たおやか着地」
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なんというやわらかい着地なんだろう。すべての文が溶け合って、薄明のなかで、一つの温度で。たとえば文は冷たく過去形に終わることがなくて事実が冷たく提出されないし、形容詞が主張や冷たい判断もしない。ずっとつらなって最後まで詩が心地よく流れていて、「良かった」はたぶん、感想として、くちぶりとしてあるし、やっぱり、「言うよ」には、とめどなく、言ってほしいなと思う。それしか聞こえなくていいとさえ思う。共鳴させられるのは、詩人にとって、たぶん、たおやかに着地することが、きっと切実な問題だからじゃないかと思う。切実さ、って、よくわからないけれど。


「篝火」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=271247
何が言われているのかは、私にはまったく分からないけれど、絵のように、まず篝火というものが示され、それが私のなかに配置される。夜だということだろう。だけど、やっぱり夜なのか未明なのか分からない。

それからの手記
それからの鐘の音
きみの柔らかい泥土

このあたりの響きは、夜をわたしに示していない。詩人特有の、未明感があふれている。闇と光の間、曖昧な。白なのか。私には青は見えていない。茶いろはあるのかもしれない。いろいろこん然としていて。「緑野」。何が言われているのか、私にはまったく分からないけれど、私なりに、悼む。なぜかは分からないけれど、ここに書かれた言葉が、自分のことのように響いてくるので。


「光のつぶてとパッセ」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=182686
未明の詩集のなかに、これは含まれていなかった。もはや夜の闇はここにはないように見えて、闇から遠く抜けて、真っ白な天上に踊っているような、漂っているようなそんな場所で、語りかけられて。何も見えなくて。闇の中にいる私たちにも、抜けたらここがあるよ、って示してくれているみたいで。
私よりもずっとこの詩について話してほしい人がいるし、私の中でこの詩を固定させたくないような気がするから、あまりいろいろ読み解こうとしたり、いつものフレーズ萌えに走ったり、こまかなアナトミーに走るのもやめて、この白さ。あんまりの白さが、でもやっぱり、見えないし、夜から朝への光ですらなくて、ただただ無時間に光っている。「パッセ」が何かというのは、詩人のきっと、独特の固有名詞への愛着、おもちゃ箱のように、その愛着がかつて、異質なもののように驚いたり私をさせて(それは悪い意味ではなくて)、ただ、共鳴というのとは違う形で詩を見させていたように思うのだけれど、ここにおける「パッセ」は何の異質感もなく、パッセでしかない、そうだよな、と思う。いったいそのパッセが何者であっても。この中にある人かもしれない。でも、それが明示されていなくてうれしい。この詩の中にあるパッセ的なパッセを見つけて、その日のパッセにすればいいし、明日違ってもいい。
ずっと、息をきるように、話しかけてくれている、その息の白さだとか、その必死さだとか、その向こうには明らかに、「光のつぶて」があって。美しさに、打ち抜かれて。そして、ほんとうに。「振り返って/雪解けだねって」言われたいと思う。ほんとうに。心から。





散文(批評随筆小説等) 未明、みえないまま Copyright 渡邉建志 2014-08-26 07:04:34
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