◆ Terence T D'arby best selection ◆
鈴木妙

 1. Are you better than A ?

「今から入る『応接室』はすべてが本物ではありません」
 と茜が言うので覚悟してドアを開けてみればそこはよく知っているはずの松ノ丘駅、高架下一番出口、目にするのは三年ぶりだけれど車道を挟んだ正面のアーケード街でミスタードーナツやマクドナルドは健在のようで、ぼくは、
「昔、あのマックで何時間もだべったよね」
 と後から入ってきた亜衣に言った。高校時代の割といい思い出だ。彼女はそれを無視するように茜を見て、
「この松ノ丘駅が、ニセモノ?」
 と尋ね、その返答は
「はい、レプリカてか、ジオラマ? あなたたちの知る現実の場所ではありません」
 だった。少し蒸し暑い。梅雨入り前の午前十一時といった時節か。
「仮想現実?」
「違いますけど。まあ」
「え?」
「おいおいわかりますよ」
 レプリカにしては、また『応接間』にしてはじっさい精巧で広い。振り向けば既にドアはなく、券売機や自動改札へ歩く人間も見受けられる。もちろん通りにもミスドのなかにもいた。電光掲示板に書かれた「〜〜方面」の文字が少し記憶と違う気がしたが視力が悪いので判別できない。また亜衣が聞く。
「人も?」
「はい、人も」
 現状。新しい部屋に入ったと思ったら駅前だった。自分でも存外に冷静で亜衣のリアクションも薄いのは、ここまでの経緯が経緯だからなのだけれど、現在それは重要ではなく、ぼくたちはもう思考をスタートさせないといけないのかもしれなかった。つまり、なぜここがはじまりなのか。
「ああ、お二人とも安心してください」
 茜が見透かしたように、
「今回はあくまでこの家の紹介にすぎませんから。クリアに必要な条件は出てきません。純粋なチュートリアルとしてまずこの『応接間』の把握につとめてくださいね」
 とはいえまず急にここへ連れてこられる時点でフェアじゃない。頭上で電車の停車する音、これらもリアルといえばリアルだが、現実で松ノ丘駅を行き来する音と比べてまったく違いがないなんて言えるわけもなかった。電車は新庄駅へ向かって発車し、それで初めて停車音がここから少しだけ東に行った市営地下鉄の車庫から来たものであることがわかる。松ノ丘駅は市営地下鉄東山線の終点駅であり、新庄駅から霜柱駅への途中で線路が地下へ潜る。ここは市の東端なのだった。ぼくは聞いてみる。
「あれにも乗れるの?」
 茜はその質問を待っていたようで、
「お金があれば。後で乗ってみましょう」
 と笑った。なにも面白くない。このレプリカが最低でも霜柱駅、ひいては市全域にまで広がっている可能性があると知れたからだ。ないとは思うが地球ぜんぶかもしれない。そこまで想像したのか亜衣はいつもより深い仏頂面になり、たぶんぼくも同じような表情をしている。そう、今まで回ってきた居間、寝室、風呂、キッチン、トイレなどは洋館の体として比較的ふつうだった、が、応接室がこのような特殊空間になっている、つまり、ぼくたちがなにかしなければならないとすればここであって、だったらなるたけ狭いほうがいい。でも広い。ぬるい風が吹いて少しだけ涼しくなる。
「ちょっと歩いてみましょう!」
 と声を弾ませて茜が勝手に歩きだす。道を渡り市境へ向かう彼女の、ブートカットパンツの裾の揺れを見せつけるような歩き方は上機嫌っぽい。それを並んで追うぼくと亜衣は情報交換をする必要があると思う。声をかける。
「あのさ」
「はい」
「どう思う?」
「なにが?」
「これ市外まで続いてたらちょっと厄介だと思うんだけど」
「厄介? そっか」
「あ」
「なに?」
「ひさしぶり」
「そうねー」
 茜がこちらを振り返りほとんど地団太と言ってかまわないスキップで近づいてきた。ナチュラルブラウンのポニーテールが左右に振り子するのとは逆に上下運動を繰り返した顔をこちらに寄せる。
「ほら、このように」
「え、なに?」
 と醒めた気持ちであいづちをを打ってみる。
「本物ではないからといって奇矯な行動を採れば人の目を引きます。じゅうぶんに留意してください」
 彼女の斜め後方で私鉄バスを待つ行列のうち、中年のサラリーマンと幼い男の子がこちらをけげんそうに眺めていた。他の人たちは本を眺めたり携帯をいじったりしているが、
「もしかしたら今の、ウェブ上に晒されているかもしれません。そこまで把握するのは難しいですけど、インターネットって怖いですよねぇ!」
 ジオラマの住人が自由意志を持つ、と確定したわけではないのだろう。それは彼女が現実でもこの変な挙動を好んで実行するかを考慮にいれなければならないが、亜衣と違って茜とは初対面なのでなんとも判断しかねるからだ。
「あ、ちなみに私たちはこの私鉄バスに乗ることはできません。市バスへの乗車は可能ですが、それも交通手段として利用できるわけではないです。ま、それも後々わかりますけど」
 と茜は笑った。
 そのようにしてぼくたちは五分ほど歩き、丁字路にぶつかった。正面にコンビニがあって、その右に隣接する古書店≪杏仁堂≫は高校生のときよく利用した記憶がある。主人がおしゃべり好きでよく近代文学の話で盛り上がった。そういえばここは亜衣に教えてもらったのだった、と盗み見た彼女の表情はなんの感慨も映していないようだ。ぼくたちはその脇の路地に進んだ。もうずっと知っている道で、ぼくが住んでいた近隣地域というわけではないけれど、古本を漁りがてらよく散歩をしたのだ。さらに行くときつい傾斜の土手で行き止まりになっており、その向こうが市境、地下鉄東山線の車庫になっているはずだった。ただ、一目散に石階段を駆け上がった茜が
「はい、このようになっております」
 と示した先に車庫はなく、電車も線路も道もない草原だった。膝ほどまでの丈の雑草が一様に並んだ地が少しずつ昇り勾配に続き、ぼやけてよく見えないけれどたぶん数キロメートル先では濃い緑をまとった森が黄緑の地平を区切っていた。たまに一部分が風でうねるそれはそれなりにリアルで、思わずぼくはそこへ踏み出そうとした。踏み出しておけばよかった。でも茜が緩やかに前方へ差し出した腕が伸びきる前に、
「ほらほら」
 彼女の掌が透明な壁に突き当たったみたいに押し留められた。実際あった。ガラスほどの摩擦もない妙に滑らかな見えないなにかがぼくの差し出した指をそれ以上前に進ませなかったのだ。それはちょうどもう一人のぼく自身が向こう側から手を伸ばしお互いがお互いの指に触れたような感じだった。
「どうです? 亜衣さんもやってみては」
 と茜が促したが、
「やだ」
 亜衣は拒否した。ボブった黒髪が草原からの風に乱される他は、やはり無感情めいた佇まいでなんのリアクションもない。ぼくもおそらく表面上は平静を保ったはずだけれど、実際には安堵感と寂寥感を同時に抱いていた。つまりまずぼくたちがなにかをしなければならない『応接室』は無限ではなく大きく見積もってもこの市全域でしかないだろうこと、そして当たり前だがこのジオラマは本当にニセモノでぼくは実際に育った街で亜衣と昔みたいにぶらぶら歩いていたわけではないことが、眼前に開けるはずだった隣町の圧倒的な「なさ」によって確信された。よかった。


 つづく


散文(批評随筆小説等) ◆ Terence T D'arby best selection ◆ Copyright 鈴木妙 2014-08-22 23:00:34
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