「地縛霊BBA」
桐ヶ谷忍
かしましいねェ。
ひとが気持ち良くうつらうつらしてたッてのに。
あたしは、よっこらせッと起き上がり上の階を覗いてみた。
幼い姉弟が鬼ごっこをしていた。
椅子を借りて子供たちの甲高い笑い声を聞いている内に母親が帰ってきた。
買い物に行ってたみたいだね。
今夜はカレーらしい。
そういえばこの間覗きに来た時もカレーだったねェ。
お気に入りのアニメが始まるらしく、姉弟はテレビの前に突進していった。
母親がトントンと包丁で野菜を刻む音を聞いている内にまた眠くなったので、あたしゃ下の階に戻ることにした。
還暦を過ぎて間もなく、亭主は死んじまッた。
優しかったけど病弱な人で、このひとが死んじまッたらあたしゃどうすりゃいいんだろうッて
伏せっていた亭主の枕元で泣いていたけど、やっぱりダメだったねェ。
いざ亭主が死んじまッたら、メシが喉を通らんのサ。
いッつも眠くて、亭主の夢見ちゃ独りでポトポト涙流して。
それで、いつものようにうつらうつらして、ふと気が付いたら
あたしの死体が部屋から運び出されるところだった。
あたしゃホントに眠るように死んじまッた。
死んだら亭主と会えるものだとばかり思っていたのに、会えなくてサ。
どれだけ落胆したことか。
死んじまッてからも、大体うつらうつらしていて、時々上の階からの賑やかな笑い声に起こされて
ひょいと天井をくぐって覗きに行く。
団地ってェのは年寄りか、若い家族が多いもんでね、今の家族の前の住人も幼い子連れの家族だったよ。
子供ってェのはかしましいもんだけど、いいもんだね。
あたしと亭主は、とうとう子宝に恵まれなかった。
どれだけ亭主の子供が欲しかったかしれないよ。
特に亭主が死んじまッてからはね。
おかげであたしゃ、今流行りの孤独死ッてやつサ。
まあ孤独死でもなんでもいいんだよ。
ようは亭主が死んだ後でも、生きる支えになり得るものが欲しかった。
亭主が早死にするのは、生前から分かっていたことだからね。
こんな優しい人が長生きできるはずがないッてね。
あたしまで早死にするとは思ってなかったし、亭主とも会えないし、でもまあ今の生活もなかなかいいもんだよ。
他人様ンちの子とはいえ、気軽に覗きに行けるしね。
かしましいねェ。
ああ、あたしゃまた寝てたのか。
今度はどれくらい眠っていたんだろ。
また上の階の子たちがキャアキャア遊びまわっているね。
よっこらせッと起き上がって、天井をくぐってみたら、段ボールだらけだった。
あらら・・・引っ越すのかい。
団地から若い夫婦が引っ越すのは大概マイホームを持ッた時なんだよねェ。
よかったねェ。
おや。
よく見たらおかあさん、お腹大きいじゃないかい。
3人目かい。
あたしゃ随分眠っていたみたいだ。
ああそうか、ここじゃ手狭になっちまったんだな。それで一念発起してマイホームっていうわけかね。
おねえちゃんがおかあさんのお腹にぴっとりくッ付いて耳を押し当てている。
新しいきょうだいが出来るんだ、あんた嬉しいだろ。
あたしも嬉しいよ。
おねえちゃんとして頑張んな。
段ボールだらけの部屋から下の階に戻ってきて、あたしゃため息が出るのを抑えられなかった。
あたしゃぁ、なんで死んじまッたのに、こんな生活送ってンのかねェ。
さっきのおねえちゃんの姿を見て、思い出しちまッたよ。
そういえばあたしの若い頃、亭主がああやって腹に耳をくッ付けたことがあった。
生理が来なくて、こりゃ妊娠したんだと思ったんだよ。
亭主はそりゃあ喜んでくれてねェ。
ぼくがおとうさんになるのかいッて、あんな嬉しそうな顔見たのは初めてだったよ。
あたしも嬉しくて嬉しくて。
でも数日後、生理が来ちまッた。
なんのこたァない、ちょっと遅れただけだったのサ。
亭主は、なに、今度は本当にぼくたちの子供が生まれるよって笑っていた。
・・・ああ、なんであたしがホントに死ねないのか今やっと分かったよ。
あたしゃ、子が産めなかったッていう未練があったんだねェ。
それでいつまでも他人様ンちの子供を見ては子が欲しかった欲しかった、ってグジグジと・・・。
あたしは死んでから初めて泣いた。
欲しかったよ、そうだよ欲しかったよ。
愛する亭主の子が。
どんな子に育つだろうって、名前は男の子だったらとか女の子だったらとかもう決めてあって
亭主の先が長くはないッて若い頃から分かっていたから、ホントに欲しかったんだよ。
どうしてかねェ。
どうしてあたしたちには子が生まれなかッたんだろ。
ああでも今は、それより亭主に会いたいよ。
亭主に会って、今の気持ちをぶつけて、そうしたら生前そうしてくれたように
あたしの髪を撫でてくれて、そうだねえッてやさしく頷いてほしい。
涙で滲んだ視界に、西日の中に白い光の線が見えて、あたしゃ、おや死んじまってからも
視力が落ちるのかねって、ぼんやりその白い光を見てた。
白い光の線はどんどん大きくなっていく。
あたしは腕で涙をこすッて、よく見てみた。
あら、ホントに目がおかしくなッちまったのかしら。
橙色の光の中に、まぶしい白い光があるよ。
あたしは窓の外の夕陽を見てみた。
夕陽のしたに、なにやらもうひとつ太陽があるような、そこから白い光が来ている。
あたしは急になにもかも了解した。
この白い光を目指して歩いていけば、亭主に会えると。
あたしは死んでから初めて、窓の外に、団地の外に出た。