陽子のベクトルは太郎を指向するのか
草野大悟2

  (一)
 
 ストーカーという言葉など存在しなかったころから、俺は陽子一筋だ。中学二年の春、同じクラスになった時からずっと。高校二年の時、文通して下さい、と手紙を書いた。思い切って、必死で、心臓ばくばくいわせながら。

 守田太郎様
 お便りありがとう。
 あなたに、あまりうれしくないことを言わねばならないことを悲しく思います。私は文通することができません。というよりその資格がないといった方がいいかもしれません。
 文通・・・お互いの考え、悩み、学校のことなど話し合えるのはすばらしいことです。
でもその手段として文通を取り上げなくともいいではありませんか。恥ずかしいことですが、私には苦い経験があります。つまり、文通に関して・・・・・・
 その時は、ほんとうに「生きている」という喜びを味わったつもりでした。でも・・・
 文通はやめましたが、その人とは今も大の仲良しです。その方がかえって良かったのでしょう。会うチャンスはほとんどありませんが、何だか楽しい、そんな感じです。
 ですから、文通などしなくてもいいではありませんか。いつも何かをよりどころにしている友達なんて、あんがいつまらないものです。それに文通するくらいでどうして勇気がいるのですか。守田君の考えも少しあやふやなところがあるのではありませんか? 私にはそう思えて仕方ありません。そんな考え、大嫌いです。
 こうして手紙のやりとりをすることは文通ではないのですか。自分の心境の変化、家族の人との話し合い、旅先でのことなど、その都度ハガキなり手紙で書けばいいではありませんか。あなたは、時間を決めて文通をやりたいという考えなのでしょうが、それはかえっておもしろくないと思いませんか。
 この手紙を開くまでは、何があったのかしら、とワクワクだったのに・・・残念です。
あまりにも小さく縮こまっているみたい。「オープン」な気持ちで、全てのものごとに当たりたいものです。もっともっと大きく! 若いんです。お互いに。

 陽子は、だ〜れが文通なんかするか、という気持ちを必死に抑え込んで書き上げたこの手紙を、いつも使っている猫のイラストの入ったお気に入りの封筒に入れ、宛名を書き、切手を貼って、家から歩いて五分位の所にある郵便ポストに放り込んだ。
 佐藤陽子からの返事を受け取った太郎は、ショックのあまりしばらく寝込んでしまい・・・というのはまっ赤な嘘で、生来のしぶとさを全開させて、文通拒否宣言をした陽子宛ての手紙を書き続けた。不思議なことに、必ず、彼女から返事が来た。彼女の手紙を何度も読み返してはニヤついている太郎に、母親の文枝は
「太郎、お前もうすぐ受験なんだから、手紙読んでニヤついてる暇あったら勉強しな!」
眉をひそめて、いつもそう小言を言った。
 二人が高校三年になったころから、世の中が急に騒々しくなっていった。
 日米安保条約や,大学の授業料値上げ等をめぐり、全共闘や新左翼と機動隊が全国で激しく対立し、火炎ビンや石が飛び交っていた。
 年明けの一月には、全共闘と新左翼が東大安田講堂を占拠して立て籠もり、催涙弾や水攻めで攻撃する機動隊に、火焔ビンや硫酸の投擲で応戦するなど激しい攻防を繰り返し、リアルタイムでテレビ放映された。
 この年、東大は開校以来初めて入試を中止することとなった。
「東大入試ないんじゃ、どうも力(りき)入らねぇな。この三年間の努力は何だったんだ」
 ほとんど努力なんかしなかったくせに、いかにもものすごい努力を続けてきたかのような顔をして、太郎は誰彼構わずこう吹聴してまわり、周りから顰蹙をかっていた。
英語、数学、国語、物理、生物、化学それに世界史、つまり東大医学部受験に必要な全科目が合格ラインに遙かに届かず、人より上回っているのは気合いだけ、という太郎が、三者面談の際、「東大医学部を狙います」きっぱりとそう宣言した時、クラス担任はしばらくの間仮死状態に陥り、口をあんぐり開けたまま、うつろな瞳を宙に漂わせていた。事態のよく呑み込めない文枝だけが、満足顔で何度も何度も頷いていた。
 東大入試がないなら当然浪人だな、そう心に決めた太郎が、父親に
「東大入試ないから、浪人する。よろしく」
そう告げたとたん、ビンタが飛んできた。それをまともに受けた太郎は床にひっくり返った。その目に、赤鬼のように真っ赤な顔をして仁王立ちしている父親の姿が飛び込んできた。
 父親の宗一郎は、「鬼の宗一郎」の異名を持つ大工の棟梁で、仕事には一切の妥協を許さず、彼の建てる頑丈一点張りの家は、年を重ねるごとにその家に住む家族に馴染み、家本来の良さを増してくる、と評判になり注文が相次いでいた。しかし、いつも採算度外視で家を造るので、忙しく働いている割には暮らし向きは一向に良くならず、「あんたに、もっと甲斐性があったらねぇ」ため息混じりに文枝からなじられ、「いいんだよこれで! グダグダぬかすな、ババア!」マジ切れして怒鳴った後、団地中に聞こえる大声で罵りあい、チャワンやハシはもちろん,テーブルまでが飛び交う夫婦喧嘩になるのが、守田家の毎晩の恒例行事だった。
 宗一郎は、闘う前に降伏するような人間を心底嫌っていた。高倉健の大ファンだった彼は、独自の「男の美学」を持っており、元来お喋りなのに無口を装い、本来器用なくせに
「不器用ですから」 と口癖のように言っていた。
 宗一郎のビンタは効いた。太郎は鼻血を流しながら
「なにすんだよぉ!」
そう叫んで、宗一郎に跳びかかっていった。しかし、背ばかり高くて華奢な太郎が、二メートル近くある筋肉の塊のような宗一郎にかなうはずもなく、何度も投げつけられ殴られ続けて、立つことも口をきくこともできなくなって倒れ込んだ時、宗一郎がようやく口を開き
「健さんを見習え、バカタレが!」
そう怒鳴った。意識朦朧となっていた太郎は、何のことかとんと理解できないまま「今のところ、オヤジに逆らわないことが賢明だな」と白旗を高々と掲げたのだった。

「太郎、大学どこ受けんの?」
「東大入試中止になったしなぁ、陽子はどこよ?」
「M大の教育学部」
「教育学部? センセにでもなるんか?」
「そ、小学校の先生になるんだ」
「ふ〜ん、それじゃ俺もとりあえずM大にするかな」
「何よ、それ。主体性ないなぁ」
「主体性なんてものは、後からついてくるんだよ」
「訳判かんない」
「お前さぁ、頭悪いからなぁ、ま、俺の『ゲバラ健さんジョー』仕込みの深ぁ〜い思想は理解できないよなぁ」
「あ〜んたにだけは言われたくないわよ。太郎、あんたの偏差値より私が二○以上も高いんだよ。判かってんの? アホはあんたでしょ!」
「はっ? 俺がアホ?」
「そ、アホ。それにあんたの今の偏差値でM大に通るのは一○○パーセント無理、受験料の無駄。他に適当なとこ見つけた方が絶対いいって。それに第一、あんた、一年のころ医者になるとか何とか言ってたでしょ」
「ふ〜む、そうか、無理か。ん? 医者? 医者になるって何の話だ?」
「あ〜あ、いいかげんだねぇ、ほんとに。呆れ果てるよ、ったく」
「でもよぉ、俺、オヤジから、大学行くなら授業料の安い国立大以外は絶対にダメ、と言われているんだ。だから、国立にパスしなければ大学行けないし」
「東大はどうすんのよ。ま、浪人して受けても絶対無理だけどね」
「陽子、もっと現実を見つめなよ。今お前が言った大学、お前の頭じゃ絶対通りっこないって」
「は? 何寝ぼけたこと言ってんの! 私のことじゃなくて、あんたのことだよ、ったく、もう、バカ!」
「おっ、バカって言ったな」
「ふん、言ったわよ、だから何よ!」
「うるせぇ、ペチャパイ!」
「あっ、あっ、あ〜、セクハラ」
「ふん、何がセクハラだ、この!」
大学受験が近づくにつれ、二人の喧嘩はどんどんエスカレートしていき、初めて手紙を交わした頃の初々しさは、跡形もなく消滅していた。
 太郎には、陽子に対する負い目みたいなものがあり(どうも、文通をきっぱり断られたことがトラウマになっているらしい)、陽子の言うことには逆らえない。逆らうと、陽子のきつ〜い反発をくらう。陽子は子供の頃からテコンドーを習っており、キレルと得意の右ハイキックを反射的に放つ。太郎は、陽子が通う女子校の文化祭に出かけた時、偶然その場面に出くわしてしまった。見るからに不良という感じのものすごくでかい男子が、学校の廊下ですれ違いざま陽子の尻を触った。
 激怒した陽子は、小さな躯のどこからそんな声が出てくるのか
「まて、くぉらあ〜」と雷の落ちたような怒声を発し
「なめたらいかんぜよぉ〜」
 なぜか鬼龍院花子になって、右ハイキックを、振り返ったその不良の左テンプルに見舞い、それでも怒りが収まらず、左膝蹴りを腹にたたき込み、その男を完全失神させたのだった。

「われわれワァ〜、国家権力ノォ〜、弾圧ニィ〜、負けないゾォ〜」
「シュプレヒコ〜ル! 安保はんた〜い、機動隊帰れぇ〜」
陽子の指示に従い、宗一郎の言葉を愚直に遵守し、東大を早々に諦めた太郎が国立K大学水産学部に入学したのは、ただ単に、通りそうな国立大学はその一校しかなかったからに他ならない。
 入学式当日から白地に赤色で「中核」と書いたヘルメットを被り、角材を持った訳の判からない一群が、「シュプレヒコール! 安保反対、安保反対」と連呼しながらキャンパス内でデモを繰り広げていた。
 太郎は、それをぼんやり眺めていたが、ゲバラのようにかっこいい男は一人もいない、皆ダサダサでデブだ、俺のスタイルに馴染まない、得意の独断と偏見でそう判断し、あっさりとゲバラ信仰を捨てたのだった。
 陽子の呪縛から抜け出すためには、物理的に彼女よりも強くならなければならない。それには、そう、ジョーだ。ボクシングだ。それしかない。K大には、テコンドー部はなかった。格闘技系の部活では、空手、柔道、ボクシングがあった。柔道は耳がギョーザみたいになるし、空手は寸止めだし、おまけに両方とも胴着がとても臭い。ここは、当然、ボクシングだな。太郎の単純な頭の中で、そういう思考回路が働いたかどうかは、本人にも判らない。
 大学入学から三ヶ月が過ぎても講義はほとんどなかった。というより、講義ができなかった。教授たちが講義を開始しようとすると、例の「われわれワァ〜」が、ドドドドド〜ッ、と教室内に雪崩れ込んで来て、教授たちを吊るし上げ、学生に向かって
「君たちワァ〜、国家権力ノォ〜、手先であるゥ〜、大学教授からァ〜、国家の手先にされるだけノォ〜、講義をォ〜、受けてもいいのかァ〜、立ち上がれェ〜、国家権力を破壊せよォ〜」
メガホンのボリユームを最大限に上げ、たぶん、そう叫び続けた。たぶん、というのは声が割れてよく聞き取れなかったからだ。
 彼らがアジ演説を打つ間、教授たちは、それを止める訳でもなく、かといって教室から抜け出すことも出来ず、ただただ蒼い顔して立ち竦んでいるだけだった。
 陽子が行っているM大はどうなんだろう?
 太郎は久しぶりに陽子に手紙を書いた。

 佐藤陽子様
 陽子元気か? 俺は元気だが、若干風邪気味だ。ボクシング部に入って、毎日ボカスカやっている。入学して三ヶ月、講義らしい講義もほとんどなく、「中核」とかいう連中が毎日毎日「シュプレヒコ〜ル!」なんて沈痛な顔して叫びながら、キャンパス内でデモしている。まったくうるさくて仕方ない。そこには、俺の心酔するゲバラのかっこいい勇姿は微塵もない。連中は揃いも揃って背が低く、デブで不細工だ。女もいるにはいるが、そいつらは学生集会で必ず「ナ〜ンセンス」と金切り声を張り上げ、黒ずくめのカラスみたいな格好をしていて、ブスばかりだ。その女たちを見ていると、陽子、お前がカワイク思えるから不思議だ。
 ボクシングの方は、今、トリプルクロスカウンターというジョーの必殺パンチと両手ぶらりのノーガード戦法を練習している。これまでにスパーリングや練習試合で負けたことは、一度も、ない。ま、元気でやれよ。

 守田太郎様
 元気そうね。そして楽しそう。風邪気味のうちに早く治してね。なんでボクシングなんかやるの? ま、ボカボカやられるのもいいかも・・・
 うちの大学でも青ヘルの連中が、連日「われわれワァ〜」ってやってるよ。この「われわれワァ〜」って全国共通なのかなぁ? ま、そんなことどうでもいいや。連中は普段喋るときも
「このまえェ〜、学食でェ〜、見かけた時からァ〜、大好きになりましたぁ〜、付き合ってェ〜、下さ〜い」
 なんて喋るんだよ。これ、つい昨日、学食で、二、三週間は風呂に入っていないような青ヘルの男子に声かけられた時の実話だよ。んで、私ね、こう言ってやったの。
「私的にワァ〜、あんたなんかァ〜、大嫌い!」
そしたら、その青ヘル、急にショボンとなって、「ど〜もォ、すみませ〜ん」そう言って逃げていったよ。あんなんじゃ、革命なんかできるわけないじゃん、ね、太郎、そう思わない?
 私は、相変わらず、毎日お父さんの道場でテコンドーのトレーニングを続けています。それに、美術部に入りました。いつか、私の油絵見せてあげるね。それじゃ、また。
 PS 「負けたことない」なんて、「勝ったことない」の間違いでしょ、ウソツキ!     アハハハのハ。

「太郎が高三の時私に言った屈辱的な言葉(ペチャパイ)がいかに的外れなものであるか証明するため、夏休みに行くから二、三日太郎の所に泊めてネ」陽子からのハガキを受け取ってフリーズしたのは、太郎が大学二年になったばかりの四月だった。
 その一週間後、「八月九日に行くからね」とのハガキが届き、太郎はまたもフリーズしたのだった。
 よろしくね・・・二、三日泊めて・・・えっ、えっ・・・と、泊まるということは・・・ははは・・・ということは・・・ムフ、ムフフ・・・・・・ 妄想を逞しく膨らませ、それ以降、太郎はムフフ一色に染まった毎日を過ごすことになった。
 とりあえず整理整頓。散らかし放題の古い家の古い八畳間の古い間借りを整理整頓。
整理整頓を始めた太郎は、これまで気にも留めなかった万年床に目をやり、これも当然日に干して太陽の匂いを一杯纏わせ・・・そして、そして、ムフフ・・・と全身ムフフ状態に陥っていた。
 陽子のおかげで一年間一度も掃除などされなかった太郎の部屋は、見違えるようにきれいに・・・はならなかったが、どうにか人が生息できる程度の環境だけは整ったのだった。
 この頃になると、あれ程毎日毎日賑やかに叫んでいた「われわれワァ〜」達もどこかへ消えてしまい、「ナ〜ンセンス」な黒ずくめの女たちも、「お前たちの顔が、ナ〜ンセンスなんだよ」と皆の前でノンポリ学生から鋭く言い放たれたのを最後に、キャンパスから消えていった。

 守田太郎様
 八月九日、K駅に午後二時着の南斗三号で行きます。よろしく!

陽子からのハガキを手に
「K駅、午後二時、南斗三号・・・K駅、二時、三号・・・K、二、三・・・」
そう繰り返す太郎の頭は完全にオーバーヒートを起こし、今にも蒸気を吹き出しそうな様相を呈していた。
 その日、その時間、その駅で、その汽車を、太郎は二時間前から待っていた。太陽がギラギラ照りつける真夏、太郎は暑いという感覚さえ無くし、腕時計を何度も何度も見ながら待合室内をウロウロ徘徊し、駅員から怪訝な目を向けられていた。
 そして・・・ようやく・・・ようやく陽子はやって来た。
太郎のムフフは頂点に達していた、が、その素振りも見せず(と、本人だけが思っていた・・・)
「陽子、よく来たな」(ムフッ)
「太郎、出迎えゴクロウ!」
「おお、さぁ、行くぞ! お前の受けた屈辱をすぐさま晴らせ」(ムフフ)
「太郎、なに力んでんの? 顔真っ赤だよ、熱でもある?」 
太郎は、一刻も早く陽子とのムフフの時を過ごそうと、タクシーを奮発し、古い家の古い八畳間の古い間借りに急いだ。太郎の頭の中では、(あーもしよう、こうもしよう、そしてああして、こうして・・・)とムフフが駆け回っていた。
 陽子は、そんな太郎をチラッと見ただけで、彼の頭の中をムフフが駆け回っていることを察知したが、おくびにも出さず窓の外を眺め
「へぇ〜、フェニックスとかあるんだぁ」
などとしきりに感心するふりをしていた。
「太郎、私、リングが見たいな、太郎がいつも練習しているリング」
「へっ?」
「だから、リングだよ、リング」
そう言うと太郎の返事も聞かず
「運転手さん、K大の体育館に行って下さい」
 そう告げて、にっこりと太郎を見た。この時、太郎はなにか嫌な予感に襲われ、ブルッと身震いした。
太郎のムフフは一瞬ショボンとなったが、ここは一番、健さんばりに『耐える男』になり切ることにして、「うむ」とか言いながら、陽子の言うとおり、K大体育館に行くことにした。
 体育館に着くと、太郎は、健さんになり切って、「こっちだ」、そう渋く低い声を演出して言い、二階のリングに陽子を案内した。後からついてくる陽子が、笑いを必死で堪えていることに太郎が気付くはずもなかった。
「へぇ〜、ここかぁ」
 陽子は誰もいないリングを見回しながらサンドバックやスピードボールを軽く叩いていたが、サンドバックの前に立つと、いきなり右のハイキックを叩き込み
「ね、太郎、あたしとスパーリングしない?」
 そう言ってにっこり笑った。
「へっ? スパ・・・スパ・・・スパーリング? うむぅ」 
太郎が重々しく健さん風に頷くのを完全に無視して、陽子はさっさとリュックを開け、いつも持ち歩いているジャージを取り出し、着替えてしまった。
「グローブは、ボクシングのでいいか?」
「いいよ。なんでも」
「うん、判った」
 これが終わったら、ムフフの時だ、いよいよだ。
太郎はムフフの誘惑の前にすっかり平常心を無くし、陽子の恐ろしさを完璧に忘却していたのだった。
 準備は整った。
 グローブを軽く合わせ、スパーリングは始まった。
 太郎が、得意の両手ぶらり戦法をとった瞬間、左テンプルに強烈な衝撃が走り、ガシャンとシャッターが降りたように辺りが真っ暗闇になった。
「ごめ〜ん、太郎。ちょっと強すぎたぁ?」
 陽子のその言葉が、太郎に聞こえるはずもなかった。
 太郎は、幸せそのもののムフフ顔をしたまま、大の字になっていつまでもリングの上でノビていた。

     (二)

守田太郎 様
太郎、元気?
 あたしは相変わらず元気にテコンドーやって、油絵描いてます。四年になったら美術部の部長を三年生に引き継ぐので、少しは楽になるかな?
 昨日、「授業料値上げ反対」のデモに行きました。例の「われわれワァ〜」、とやってた人たちはどっか行っちゃったけど、二百人以上の学生が、県庁までデモしたんだから、ちょっとすごい。でもね、周りの人たちの白い眼差しは痛かったなぁ。
 ところで、三月十五日まで京都市美術館で『ゴヤ展』やってるから、見に行きませんか?
ではでは、おやすみぃ〜

 佐藤陽子 様
 もちろん行きます。ゴヤは俺の大好きな画家の一人です。

 去年の八月、せっかくのムフフ絶好チャンスを逃した太郎は、今度こそ、との決意を込めて返事を書いた。陽子と太郎、大学三年、もうすぐ四年になる前の冬のことである。
 この頃になると、例の「われわれワァ〜」達は影も形も見えなくなり、キャンパスは平穏な日常を取り戻していた。世の中も、まるでハシカが走り抜けた後のような、なんとなく気だるい空気を漂わせながらも、なんとか平穏な状態に戻ったように見えた。
陽子から『ゴヤ展』へのムフフ案内を受けたその日、太郎は何を血迷ったのか、K大の美術部『審美会』に入部した。
 彼の一連の作品らしいものは、他の部員の目には、ただ線がむやみにノタクッタように見えるだけの代物にしか映らなかった。が、そこはそれ、合評会で太郎の水彩画を酷評して、追いコンの時泥酔した太郎からボコられた四年生のこともあり、合評会では、「う〜ん、短期間に伸びてきたなぁ(嘘だけど)線がイキイキしてるぞ(どうでもいいけど)」などと( )内は胸の中でそっとつぶやくだけに留め、いい加減なコメントをすることがいつしかみんなの暗黙の了解事項になっていった。
 太郎が絵を描く目的はただひとつ、陽子のヌードを描くことであり、それを実現させるためにはあらゆる努力を惜しまないという、良く言えば一途、普通に言えば傍迷惑なところが彼にはあった。
 まずは、陽子にモデルの件をOKさせることだ。そのためには、何をどうすればいいのか・・・太郎の灰色の脳細胞がフル回転を始めた。
 作戦その一
 陽子の超負けず嫌いな性格を逆手に取る。
 夏のあの日、陽子は、「ペチャパイでないことを証明してやる」、そう言って俺の間借りに乗り込んできた。その時俺は、あまりにもムフフを先行させてしまい、絶好の機会を逃してしまっている。それで、もう一度「やーいペチャパイ攻撃」を仕掛けて陽子の負けん気に火を付ける。 
 作戦その二
 女性のヌードの美しさを何度も何度も繰り返し陽子に伝え、「私は美しい」と陽子に思い込ませる。
 作戦その三
 油絵の大作に女性のヌードを描くべく、写真等を見ながらデッサンやクロッキーを重ねているが旨くいかない。やはりモデルがいないとだめだ。芸術のためヌードになってくれ、と「芸術のため」を前面に出す。 
 作戦その四
 「裸のマハ」なんかより私の方が美しい、と陽子に思い込ませる。繰り返し「マハなんか問題にならねぇよ。お前の方が絶対きれいだよ」と言い続け、けっこう暗示にかかりやすい陽子をその気にさせる。
 作戦その五
 二十一歳になったばかりの輝きは、二度と戻ってこない。その輝きをキャンバスに永久に残さないか、とヤンワリ誘う。
 う〜ん、いろいろ考えているうちに、太郎の性能の悪い灰色の脳細胞はオーバーヒートをおこし、高熱を発してしまった。

 守田太郎 様
 元気?
 私は相変わらず元気にやっています。
 太郎、美術部に入ったんだ、今ごろなんで?。ま、訳判かんない所が太郎の太郎らしい所でもあるけどネ(って、私も随分成長したでしょ)。まさか、「ペチャパイじゃないこと証明してやる」と言った私の言葉を真に受けてるんじゃないでしょうね。

 三月五日、まだ寒さの残る快晴の早朝、陽子と太郎は「裸のマハに会っちゃうぞお二人様限定ツァー」に出発した。もっと詳しく述べるならば、陽子は「裸のマハ」に会うために、太郎はそれを口実に陽子のヌードを描くために、ということになる。
陽子は、水色のジーンズに白いセーター、水色のハーフコート姿で、酒袋で作られた渋い焦げ茶色の大きなバッグを下げていた。
 太郎は、大きなキスリングを背負っていた。
 プアな大学生である二人は、極力、鈍行列車を利用し、急行や、まして特急などというリッチな方々が利用する列車は利用してあげないことで意志統一していた。
 二人を乗せた午前六時発の鈍行列車は、律儀に各駅停車を繰り返し、太郎を苛つかせた。時には、時間調整と称して駅で停車したりして、太郎をブチ切れ寸前まで追いつめ、午後三時にようやく第一日目の目的地である倉敷駅に到着した時には、太郎をヘロヘロ状態に陥れていた。陽子はどうだったかというと、本を読んだり適当に眠ったり車内を探索したりして暇を潰していたため、元気一杯わくわく状態だった。
「太郎着いたよ」
「判かってるよ、そんなこと」
「あっ、そ」
 そう言い残すと陽子はさっさと汽車から降りて、「早く早く、急いで太郎、早くしないと大原美術館閉まっちゃうよ」と太郎をせかせた。
「そんな急がなくても大丈夫だ。午後五時閉館なんだぜ」
「何のんびりしたこと言ってんの。だから急ぐんでしょ!」
「は?」
「だから素人は嫌なのよ。いい、たかだか二時間やそこいらで大原美術館の作品を全部じっくり見られると思ってんの?」
「できるんじゃネ」
「太郎あんたほんとアホだねぇ。な〜んにも判かっちゃいないんだから、もう泣きたくなっちゃう」
「泣きたくなったら俺の胸で泣きな」
「あー、も、サイテー」
ほとんど口喧嘩状態のまま二人が大原美術館に着いたときには、時計はもう午後三時半を回っていた。
 入口の石段を上がった左手には、ロダンの「歩く人」がいて、右手を前方に差し出しながら今にも歩き出しそうに二人を出迎えたのだが、口喧嘩状態継続中の二人は、偉大なロダンの傑作をあっさり素通りし、「歩く人」の口をアングリ開けさせたのだった。
 「歩く人」がこれを契機に「考える人」になった、と後に太郎が吹聴して回ったのは、彼が心底そう信じていたからで、彼を責めてはいけない。
 陽子は詳しかった。
 展示してある作品を前に、次々と独断と偏見に満ちた解説を加えていった。
「これ、祐三ね、祐三っていっても加山雄三じゃないよ。イケメンの佐伯祐三だよ。彼はアカデミックなそれまでの作風をブラマンクから、ケチョンケチョンに貶されてやけくそになって、めちゃくちゃ現場で描きあげていったのよ。ま、ブラマンクとかの影響も受けてるけど、佐伯の絵、当時結構パリで評判だったみたい。でね、調子に乗って日本に作品を持ち帰って展覧会を開いたんだけど、見事にスルーされてしまってね、またパリに戻ったのよ。そして、パリで死んでしまったの、結核でね。な〜んかロマンチック。誰かさんとはぜ〜んぜん違うね」
 (けっ! おめぇはイケメンが好きなだけだろうが。な〜にがロマンチックだよ)
太郎は、こっそりと胸の内で毒づいた。
「これロートレックのマルトX婦人。死の前年に描かれた彼の最高傑作よ。彼は当時としては非常に斬新なポスターをたくさん作製してる。でもね、事故で両足を骨折して成長が止まって小さかったのよ。彼は娼婦と一緒に暮らしたこともあるのよ」
「青木繁ね。この自画像や海彦山彦、海の幸などを描いたころが彼の絶頂期と言えるわ。晩年はふる里に帰って描いたけれど、そこにはもうこの頃の輝きはないよ。天才は燃え尽きるのが早いのね、あたしも気をつけなきゃ」
「おめぇは、心配ねぇよ」うっかり口に出してしまって、あっ、と口を塞いだがもう遅かった。「なんですって!」そう言って槍のような視線で太郎を射抜いた陽子の背後には、今夜たぶん吹き荒れるであろうハリケーンが潜んでいた。
「ま、今は我慢しててあげる。んで、これがスーティンの鴨ね。力強いタッチ。彼、色ごとに違う筆を使ってたたきつけるようにして描いたんだよ。それで、筆が折れたり、右手の指の骨が折れたりしたんだって。モディリアーニに、『僕が死んでも大丈夫だ。後にスーティンという天才を残してゆくから』と言わしめた程の才能を持っていたけど、当時はあんまり絵は売れなかったみたい。あたしもそう。才能がありすぎると、凡人には理解されないんだ、やっぱ。ね、太郎どう思う?」
「・・・・・・」(沈黙は金ナリだもんね)
「これが、坂本繁二郎。さっきの青木と同郷で福岡県の久留米出身。東京芸大で同じクラスでライバル的存在だったんだよ。坂本は長生きしていい作品をたくさん残してる。このような中間色を多用した後期の作品に彼の特質があるわね」
ピカソ、シャガール、ゴーギャン、マチス、モネ、キリコ、藤田嗣治、安井曾太郎、シャニック、梅原龍三郎、サム・フランシスなどなど、陽子は、美術評論家にでもなったように滑らかに自分の教養をひけらかし続けた。高い鼻はますます高くなり、普段でも反らしている胸を一層反らしていた。陽子の解説を熱心に聞くふりだけしていた太郎は、ぐっと反らされたその胸に視点を集中させていたのだった。
 閉館時間はあっと言う間にやってきた。
「なんか喉渇いちゃった」 
 陽子はそう言いながらさっさと大原美術館西隣にある喫茶店、「プロムナード」に入っていった。そしてコーヒーを飲みながら
「すみませーん。この近くにホテルとかありますか?」
 そう店員に訊ねた。
「ええ、歩いて十分位の所にビジネスホテルがありますよ。近くには旅館もあります」
 店員は、意味深な笑みを浮かべながら応えた。
すっかり機能停止状態にあった太郎の灰色の脳細胞が、ホテルと旅館という言葉に素早く反応した。
「陽子、は、早くホテル行こう」
「そうね。でも、何か食べていこうよ。なんかお腹空いちゃった。」
「う、うん」
 仕方なく同意した太郎を尻目に、陽子はメニューを手に取り「すみませーん、ビーフシチューセット下さい」そう注文した。
「じゃ俺も同じで。それとビール」
「あっ、あたしもビール下さい」
 ビーフシチューセットがくるまで、陽子は楽しそうに喋り続けていた。そして、運ばれてきたビーフシチューをゆっくりと食べながら一杯目のビールを一気に空けた。
 太郎はひたすらビーフシチューを食い、ビールをちびちび飲みながら、頭の中で、これからホテルに行った後の行動を、大胆かつ独善的にシュミレートしていた。
「おいしかったね、太郎」
「うん、うまかった」
「またいつか来ようね」
「うん、来よう」
 ビール二杯を飲んで目の縁がほんのり赤くなった陽子は、何だかとっても色っぽく太郎には感じられ、返事も上の空になっていた。
 食事も終わり、ホテルに急ぐ太郎に、陽子は、「もっとゆっくり行こうよ太郎」そう声をかけ、倉敷の町並みを眺めながらゆっくり歩いていた。(ええい、もう!)太郎はそう舌打ちしながら思ったが、口に出すわけにはいかなかった。
 ビジネスホテル「KURASHIKI」は、「プロムナード」から歩いて丁度十分の所にあった。
 瀟洒な白い建物を見た太郎は、さぁ! と気合いを入れた。太郎が受付に行く前に陽子が動いた。
「シングル二部屋空いてます?」
(ん? 今確か二部屋と言ったよな)
「あゝ良かった、二部屋空いてるって」
(えっ、なんで、なんで二部屋なんだ)
「じゃあ明日ね。朝九時出発よ、い〜い?」
 そう言い残すと
「♪あっるこ〜、あるこー、わたしは〜げんきぃー♪」
 歌いながら先に行ってしまった。

 三月六日 京都市美術館
 「裸のマハ」が待っていた(ま、「裸のマハ」としては別に待っていたわけでもなんでもないんだが・・・)。
 おゝ、その絵を食い入るように見つめる大きなキスリングを担いだ男、太郎がいた。
 すぐ隣に、絵に近寄ったり離れたりしてその絵を観賞する女、陽子の姿があった。
 太郎の目は、今や完全にマハのバストと、キュッとくびれたウエストと、そこから下に続くあの部分とに吸い付けられていて、今にもスペシューム光線を発するのではないか、と危惧されるほどの熱を帯びていた。
 透き通る滑らかな白い肌、両手を頭の後に組んで、挑発するようにこちらを見つめるマハを前に、太郎はその場にいることさえ忘れてしまっていた。
「あーぁ、陽子、劣等感感じるぅ」
 突然耳元で声がした。それで正気づいた太郎が左横を見ると、そこには無念の形相を浮かべてマハを睨み付けている陽子がいた。
「劣等感感じるぅ〜」
 もう一度言った。その時、気の利いた男であれば、何某かのリアクションを起こしていたであろう、が、太郎はまったく気が利かない男だった。それで、言った言葉が「なんで?」
 陽子は明らかにムッとしてそれっきり黙ってしまい、絵の前を離れてさっさと美術館の外に出てしまった。
「なにムクレテルんだよぉ」後を追いかけた太郎が訊いても、ダンマリのまま、その日の宿泊先である「タワーレステル」に直行してしまい、よっぽど頭にきていたのか、正常な判断心を無くしていたのか、陽子はなんとダブルの部屋をとったのだった。
「太郎! カツサンドとビール!」 
 部屋に入るなり陽子はそう大声で言って太郎を見据えた。
 太郎は陽子の迫力に押され、言われるがままにビール二本とカツサンド二人前をフロントに注文した。それらが部屋に届くまで、陽子は不機嫌を絵に描いたような仏頂面をして一言も言葉を発しなかった。太郎はこの時まだ、なぜ陽子がこうも不機嫌になったのかとんと理解できずにいた。そして、ビールを二本以上飲んだ陽子がどう変身するかももちろん知らずにいた。
「太郎、あんたさぁ、ほんと、ドンカンだね!」
「な・・・どうした・・・」
「どうしたぁ? ハンッ! あたし美術館で何て言った、言ってごらんよ!」
「は・・・」
「あたし、二回も言ったのよ! 二回もよ! この陽子さんが、恥を忍んで言ったのにィ、太郎のバカ!」
「なんでよ、何て言ったのさ?」
 この一言がいけなかった。この一言が陽子の怒りに油を注いだ。
「何て言ったですって! あーも、サイテー。また、ハイキックされたいわけ、アンタ!」
「い、いや、そっ、それは困る」
「なーにが、そっ、それは困るよ。ビールがない! ビールがないぞ、太郎!」
「よ、陽子、あ、あんまり飲まない方が・・・」
「へっ? あたしがあたしのお金で飲んでんの! あんたみたいなドンカン男に言われたかぁねぇよ!」
 陽子の怒りは留まるところを知らなかった。結局この夜、彼女はビール三本を空にし、それでも足りずに日本酒一合を飲み、「ってんだよ、太郎のバーカ」という言葉を最後に、バタンとベッドに倒れ込み、そのままクゥクゥ小さな寝息をたてて眠り込んでしまった。 (そんなぁ・・・)太郎はここでもただただ陽子の寝顔を眺めるだけで、とても彼女のヌードをデッサンする状況にはないことを認めざるを得なかった。
「オッハヨ! 太郎。朝だよ!」
 翌朝午前七時、寝込んでいた太郎に超明るく声をかけた陽子は、テーブルの上のビール瓶と徳利を見て「あーあ、太郎こんな飲んで、モゥ」そう真顔で言った。

三月八日
前日熟睡したおかげで元気を取り戻した二人は、鈍行列車の人となってノロノロと鳥取に向かっていた。もちろん、あの有名な鳥取砂丘を見るためにだった、のは陽子だけで、太郎はというと相も変わらず陽子のヌードを描くことのみに執着しており、砂丘なんかどーでも良かったのだが・・・
 向かい合わせの席に座り、園部駅で買った駅弁を頬張りながら、太郎は白いセーター姿の胸をチラ見していた。
 汽車はそんな太郎のヤラシイ思惑を乗せてゴトゴトとゆーっくり走ってゆく。もう、太郎も鈍行列車に苛つくこともなく、座席に横になってうたた寝したり、陽子の胸をチラ見したり、ごく希に車窓を流れる風景に目を留めたりしながら時間をやり過ごしていた。
 陽子はといえば、これは相変わらず本を読んだり、列車内を探索したり、軽く居眠りしたりして鈍行の旅を満喫していた。
 陽子は思う、あたしなんで太郎なんかと一緒に旅してんだろ?
 答えは見つからない。
 目の前で、大口を開けて鼾をかきながら爆睡している太郎を見ると、こいつを好きになる、ということは絶対にあり得ない、そう確信するのだが、自分自身でも説明のつかない心のベクトルが、なぜか陽子を太郎の方へと向かわせているのだった。
 鳥取駅からバスに乗って砂丘へ。砂丘のベンチに腰掛けて、鳥取駅で買ってきたアベ鳥取堂の「鳥取名物元祖かに寿し」を二人が食していると、高齢者御一行様おおむね二十人位が、「最近の若いもんは、こんな所でも平気でメシ食うんだねぇ」などと眉をひそめながら二人を見い見い通り過ぎてゆく。
 二人も、「最近の年寄りはほんとヨケイナコトばっかりノタマッテ、だから好かれないんだょ」、そう思いながら彼らを眺めている。
それにしても砂丘は大きかった。二人は、そのスケールの大きさに圧倒され、かに寿しを食い終わった後もベンチに座り、ただぼんやりと砂丘を眺めていた。
 しばらくして、よっこらしょ、とえらく年寄り臭いかけ声を発して陽子が立ち上がった。
「太郎、海の見える方に行ってみよう」
「あゝ」
小高い丘状になっている所まで、ベンチから真っ直ぐゆっくりゆっくり歩いて行く。砂に足を取られながら丘の斜面を登り切ると、目の前に日本海が広々と広がっていた。見渡す限りの海がそこにあった。その海は、二人が慣れ親しんだあっけらかんとしたふる里の海とは明らかに異なり、陰鬱で暗い鉛のような海だった。その鉛の海が大きな白い波を立てて砂丘に押し寄せている。
 陽子が白いコンバースを脱いで裸足になったのを見て、太郎も黒いコンベースを脱いで裸足になった。太郎の靴はいわゆるマガイモノであったのだが、太郎はそれが本物のコンバースだと固く固く信じていた。
 二人は自分たちの靴を砂丘に置いた。
 陽子の白いコンバースと太郎の黒いコンベースが、本物とマガイモノの違いはあるにせよ、仲良く並んで海を見ていた。
「これ、写真に撮って太郎」
「自分で撮りゃいいじゃん」
「なに・・・何かご不満でも?」
「い、いや、別に・・・」
「じゃ、撮って」
「判かったよ、撮りゃいいんだろ、撮りゃ」
「何よ、その捨て鉢な言い方は」
「はいはい、撮らせていただきますョ」
 パシャリ。
「海をバックにしてあたしを撮ってよ」
「へいへい」
 パシャリ。
 陽子は砂丘に座ったり、立ち上がって海を見つめたり、太郎のコンベースを両手に持ったり、腰に手を当てたり、いろんなポーズをとった。
陽子が次第に不機嫌になっていくことに太郎はまたしても気付かなかった。
 (ほんと、超ドンカン!)
ここまでドンカン面されると、陽子でなくても怒りたくなる。
「もぅ、ヤメヤメ、ヤメタ!」
「なんで?」
「ん、モゥ! 太郎の大バカ!」
 ぴったりした水色のジーンズに包まれた形のいいヒップ、キュッとくびれた腰、おそらくはBカップはあるであろうバスト、いやあ見事見事、そう思っていながら、陽子に対するトラウマからか、太郎は、そんなことは一言も口には出せなかったのだ。
 その日二人は、日本海の海鳴りの聞こえる民宿に泊まった。襖一枚隔てて。
 太郎は、湯上がりの浴衣姿でくつろいでいる陽子と食事を摂りながら「いやあ、日本海ってすごいっすね」などと、どうでもいいことを民宿の主人と話し、松葉ガニのみそ汁をお代わりしていた。
 陽子は、そんな太郎を見ながら「もう金輪際、太郎のモデルなんかならない!」そう固く固く決心し、食事が済むとさっさと部屋に引っ込んでしまった。
 襖一枚の隔たりは、地球と月以上の距離がある、しみじみそう思う太郎であった。

三月十日
 雪の残る寒い一日。萩駅に着いた二人は、駅前のレンタル自転車に乗って、吉田松陰邸跡や高杉晋作邸跡を見学し、指月公園を回り、大した感動も覚えず、午後一時三十三分発の鈍行列車に乗って萩駅を離れ、当初方針どおりひたすら鈍行を乗り継いで、午後八時三十三分にふる里の駅に帰って来た。
 そこには、待っているはずのない、若しくは、待っていて欲しくないナンバーワンの人が、鉄仮面のような顔をして待っていた。その人は、陽子の父親、浩一郎その人であった。「あっ、父さん来てる。あの顔相当に怒ってるな。あたしが迎えに来るように電話したんだけど、太郎まずかった?」しらっと陽子にそう言われ、太郎は、(もちろんだ、この大馬鹿野郎めが!)、と心の中で大声をあげた。
浩一郎は、テコンドー道場の館主で、世界チャンピオン四回、全日本チャンピオンに五回もなっている知る人ぞ知る、知らない人は知らない、ブルースリーそっくりの男だった。アチョーとか言うんだろうなやっぱ。太郎の不安は一気に膨らんでいった。
 陽子はスタスタと浩一郎の方へ歩み寄ると
「お父さん、来てくれたんだ、ありがと」
 平気な顔してそう父親に声をかけた。
「うむ・・・」
「ど、どうも、初めまして・・・」
「・・・・・・!」
浩一郎がギロリと太郎を睨んだ時、太郎の全身を恐怖が走り抜けた。その瞬間「すみません、すみません、すみません」太郎は本能的に平身低頭モードに突入し、ひたすら頭を下げ、ひたすら謝っていた
 頭の中が「すみません」一色になっていた太郎が、父親の横で笑いを必死で堪えている陽子に気付くはずもなかった。
「じゃね、太郎、バイバイ、お父さん帰ろ」
「うむ・・・」
 浩一郎は、「アチョーの一撃でも見舞わないことには気が済まないぞこのやろオーラ」を、娘の一言で渋々諦め、
「♪ あっるこ〜、あるこー、わたしは〜げんきぃー♪ ドンドンいっこぉ〜♪♪」
 「となりのトトロ」の中で流れる「散歩」を明るく歌う陽子と並んで、陽子の荷物を全部持たされて、駐車場の方へと消えて行った。
 後に一人残された太郎は、二人の後ろ姿を、放心状態のままただ眺めていた。

    (三)

佐藤陽子様
 こうして書き送ることのむなしさと、安らぎとを感じつつ今日もまた書き続ける。
 あと八ヶ月すれば僕らの四年間も終わりを告げる。
 君が、何かの問題にぶつかり、それでも解決の糸口すら掴めぬ時、君は、山に登るのだ。
 どこの山がいいか。それは君の手にかかっている。
 君は今、何ものからも解き放たれた小鳥だ。そしてそれが君の一番ふさわしい姿だ、と
僕は信じる。歩こう、登ろう、君の後に僕はいるはずだ。君の山行の邪魔をしないくらい
の距離を保って。
 僕は、働くという行為とは無縁の人間だ。自然の中で生きてゆこうと思う。

 いつもとかなりトーンの異なるこの手紙を受け取った陽子は、ふうーっ、と大きなため息をついた。太郎が何かもっともらしいことを、もっともらしく考え始めるとろくなことにはならない。しかも今回は、僕だの君だの解き放たれた小鳥だの鳥肌感満載の言葉が乱立してるし、極めてヤバイ兆候だ。これまでの豊富な経験から陽子はそう判断した。
 この手紙を一言でまとめると、要するに「俺、働きたくないもんね」ということだろ。それをクドクド書いて、まったく鬱陶しいったらありゃしない。太郎との付き合いが長くなればなるほど、太郎に関する陽子の眼力は鋭さを増していた。

守田太郎様
 あなたは、今のままでいくと、とんでもないロクデナシ人生を送ることになります。
 あたしが、自信を持って、そう断言します。
 太郎の言動なり、思考なりに関して、今までにあたしの指摘が外れたことは一度もないよね。何故、ロクデナシ人生、それも、とんでもないロクデナシ人生、換言すれば超ロクデナシ人生を送ることになるのか、理由が知りたい?
 教えてあげてもいいけど、今は、教えてあげない。太郎の問題だから、あたしには関係ないし、太郎が自分で、自分自身で何故かに気づき、それを是正するようにしない限り。
 人からいわれたら、太郎は、絶対、反対の方向に動くからね。今までの経験から、あたし十二分に判ってるから。
 さて、このままでは超ロクデナシ人生を送ることが確実な守田太郎様、超ロクデナシには超ロクデナシなりの生き方があるんだけど、そのためには、太郎の超ロクデナシ人格をよーく理解してフォローする人が必要不可欠だよ。今のところそんな奇特な人は見当たらないでしょ、あたしを除いて。でも、あたしは、ロクデナシは大嫌い!!
 就職試験、お互い頑張ろうね!
 
陽子の手紙を読んだ太郎は、「ロクデナシ→超ロクデナシ→→大嫌い!!」と流れるように繰り返される「ロクデナシワールド」に打ちのめされ、ショボン・・・とはならなかった。
 ここまでロクデナシを連呼するか、普通。ねぇ、と太郎は誰もいない古い家の古い間借りの古い机の上で、コーラ瓶にさされて所在なさげなフリージアに話しかけた。
 私に話しかけられてもねぇ
フリージアは、はなはだ迷惑モードを全開させて、さっさと横を向いてしまった。
 陽子は、浩一郎との特訓のおかげで、大学四年の春におこなわれたテコンドー世界大会四十六キロ級で見事に優勝し、長年の夢を実現させた。
 浩一郎の歓び様は、親バカもここまでくれば一つの芸術だな、との訳の判からない評価を周りから勝ち得るほどだった。
 彼は、道場に通う門弟総てに「陽子がな、陽子が優勝したんよ。世界大会。だから、みんなの家族の方々にもそう伝えるんだぞ、いいな、判ったな」そう強制した。そればかりか、「佐藤陽子、テコンドー世界大会優勝」と書いた、陽子が眼光鋭く右ハイキックを放つ瞬間を写した写真入りポスターを自作し、深夜こっそりと町内のあちこちに貼って回り、親バカの真価を遺憾なく発揮していた。
 「陽子、これでお前は立派な跡継ぎだ、二人で世界チャンピオンを量産するぞ」との言葉が浩一郎から発せられるのに、そう時間はかからなかった。
 陽子が、その言葉を、得意技の右ハイキックを放つ時のように、目にも留まらぬ早業で粉砕したのは、ほんの一瞬だった。
「父さん、落ちついて聞いてね。あたし、道場継ぐ気ぜーんぜんないから」
「えっ!」
「道場継がないのっ!」
「う〜む・・・ 将来どうするんだ陽子」
「そんな先のことは判らない」
 娘が、一旦、こう、と決めたら、誰が何といおうが絶対に自説を曲げないことを浩一郎は知り尽くしていた。
 陽子の母親美(よし)子は、病弱で、陽子が小学校に上がる頃から入退院を繰り返してきた。その分、陽子には寂しい思いをさせてきた。しかし、陽子は寂しさはおくびにも出さず、美子の入院中は母親代わりをつとめてきた。
 陽子は、甘えるということを知らずに育った。母親の代わりに父親の世話をし、テコンドーのトレーニングを続け、油絵を描き、勉強に励む、という具合で、陽子の一日はあっという間に過ぎていった。
 そんな陽子の前にひょっこり現れたのが太郎だった。それまで、多くの男の子から多くのラブレターを貰い、一読して、破ってポイしていた陽子は、今までにないタイプの男である太郎に若干の興味を抱いたのだった。ちょうど、動物園のサルのオリの中で、他のサルとはまったく異なる行動を取ってボスザルから厳しくお仕置きをされているサルを見たときのような。
 それで、太郎の手紙に返事を書いた。今まで一度だって返事など書いたことがなかったのに。その結果が、現在へと繋がってしまった、という訳である。
 その太郎は、「俺、働きたくないモンネ大作戦」を着々と進行させていた。
「おやじ、今からの世の中は、学歴だよ、絶対」
「それで、大学院に行くことにした。大丈夫、国立大学狙うし、奨学金貰うから」
「とりあえず三校受けてみようと思ってる」
それを聞いていた文枝は、
「だ、だ、ダイガクイン?」
 文枝の言葉を聞いた宗一郎は、
「うむ・・・」
 ということで、今回は幸運にもビンタもとんでこず、また、勘違いも甚だしい期待もかけられず、意外なほどスンナリと受験の許可と、ひょっとして合格した場合、大学院にいってもよろしいとの許可を得たのだった。

佐藤陽子様
 陽子、テコンドー世界大会、優勝良かったな。オメデトさん。ま、この俺をKOする程の実力だから、優勝は堅いな、とは思っていたけどな。
 ところで、俺、大学院に行くことになった。今のところ、適当な国立を三つ選んで受けることにしている。俺の実力をもってすれば、どれかに当たるだろう。
 陽子も、もうすぐセンセの試験だろ? 頑張れよ。落ちたら、俺の胸で泣かせてやるから安心しろ。それじゃ、また。

守田太郎様
 太郎、相変わらず気が早いね。まだ合格もしていないのに、大学院行くことになった、なんて。でも、良かったね。受験できるんだ。太郎が何で大学院に行こうとするのか、あたしにはよーく判っている。「働きたくねぇ〜」からでしょ。それに、どれかに当たるって何よ。宝くじゃあるまいし。
 いくつになっても、太郎、いいかげんだねぇ。あたし、ある意味、尊敬するよ。
 今度会うときは、二人で合格祝いだね。
 ぱあーっ、といこうね。

 ぱあーっ、といくと、あまり良いとはいえない、というか、ほとんど最悪の「あの酒癖」がひょっこり顔出して「くぉらぁー、太郎、てめぇー」なんてなるんだろうな、きっと。超ヤバイじゃん。ま、二人揃って合格したらいいけどな。俺は、必ずどこかに通るから大丈夫だが、陽子の方が心配だな。
 太郎の心配が現実のものとなったのは、大学が夏休みに入った八月の早朝だった。実家のあるT市に帰省していた太郎に、突然、陽子から電話が架かってきた。
「太郎、オッハヨ。起きてた? 起きてるよね、当然。もう朝の六時だもんね。あのね、あたし、教員採用試験落っこっちゃったよ。でもね、広告代理店には合格したんだ。合格祝いやろうよ。今日にでもおいでよ」
「へえぇ、落ちたんだ。陽子がねぇ。落ちたんだ。へえぇ、落ちたんだ」
「何よ、落ちた落ちたって、嬉しそうに」
「い、いや、べ、別にそういう訳じゃ・・・」
「三時M駅着のでおいで。迎えにいってやるから」
「う、うん、判った」
あの陽子が、教員採用試験に落ちた、ということがにわかに信じられない太郎は、彼自身が幸運にも三校受けた大学院のうちの一校に受かった、と言いそびれていた。
 その日午後三時、太郎は、陽子ご指定の汽車に揺られてM駅に降り立った。駅の改札口前には、陽子が待っていた。
陽子を見た太郎は、一瞬、フリーズしてしまった。陽子は、ジーンズのショートパンツをはいていた。それもピッチピチを。
「や、太郎」
「おっ、よ、陽子」
太郎の視線は、陽子のスラリと伸びた足の膝から上の部分(ひらたくいうと太股)に、吸い付けられたままだった。
 陽子は、さっさと歩き出し、太郎は、とっとと後をついていった。
 陽子が向かおうとしているのは、M駅のすぐ裏手、仏舎利塔のある一応「山」、という名前のついた、どう見ても誰が見ても「丘」、といった方がしっくりくる「花丘山」だった。
 その途中には、多くのラブホテルが立ち並んでいることを熟知していた太郎は、あらぬ期待に胸を膨らませて、前を歩く陽子のラブリーなヒップとビューティホーな太股をひたすら見つめながらとっとと後をついていった。
 陽子、ひょっとして、ラブホに入るのか?
太郎の期待は大きく膨らみ続け、歩行に若干の困難を伴うようになっていた。
 歩くこと三十分、ラブホをあっさり素通りし、大きく膨らんだ期待が、ぷしゅー、という音とともに急速に萎んでしまったその時、二人は頂上に着いた。
 そこには夏の強烈な陽射しを受けた仏舎利塔が白く、厳かに輝いて、太郎のヨコシマな心を照らしていた。
 今日の陽子は何か変だな、あんまり、というか、ほとんど喋らないし(いつもは、うるさいくらい喋り続けるのに)、何か思い詰めたようにしているし。
 太郎のその「今日の陽子は何だか変予感」は、その日の夜、現実となって忽然と太郎の前に姿を現した。
 M市の夜景が一望できるレストラン「蜃気楼」の最大のウリはその夜景で、料理そのものは、ミシュランならマイナス五つ星くらいであったのだが、陽子は、定番のカツサンドを注文し、定番のビールを飲んでいた。そうなると当然、太郎も同じ物を食い、同じ物を飲むことになる。
 この「カツサンド&ビール」は、何かひっかかるよなぁ、太郎の性能の悪い灰色の脳細胞が働き始めてしばらくしたとき、ピンポン、と音がして、その正体が明らかになった。
 そうだ、あのときだ。「裸のマハ」に会いに京都市美術館に行ったとき「カツサンド&ビールパワー」に「日本酒一合パワー」が加担して、超がつくくらいパワーアップした陽子が荒れ狂ったのだ。そうだ、今日の陽子は、あのときのムスッとした顔と同じ顔をしている。と、いうことは・・・と、いうことは・・・ということだ。
 何だか判ったような判らないような、「と、いうことだ」。
「よ、陽子、あ、あんまり飲まない方が・・・」
「なーに? まだビール、グラス半分しか飲んでないじゃん」
「で、でもさ、今日、ショートパンツだし、天気いいし」
「なに言ってんの。訳判かんない。太郎!」
「は、ハイッ」
「あたし、小学校のセンセになりたいよぉ、太郎」
「なりゃいいじゃん」
「でも、試験、落っこちたんだよ」
「そんなもん気にすんな。俺は大学院当たったんだから」
「あーあ、小学校のセンセになりたかったなぁ。ビールお代わり下さーい」
(あ、二杯目、ピッチ早や)
「なりたかったなぁって、らしくねぇぞ、陽子」
「ん?、らしくねぇって、どういうことよ」
「どういうことも何も、そのとおりのことじゃん」
「あたしらしくないってこと? あ、もう一杯ビール下さーい」
(げっ、三杯目、ヤバ・・・)
「そ、陽子らしくないかなぁ、なんて」
「かなぁ、って何なのよ、太郎。だいたいあんたにあたしの何が判るっていうのよ! あんたなんかに判られてたまるもんですか!」
「よ、陽子、落ち着け、冷静になれ、どうどうどう」
「あたしは、馬じゃないよ、バカ! あんたなんか大嫌い!」
出た、必殺「大嫌い!」。
 あーっ、これは相当にやばい展開になってきている。これは荒れる。しかも、かなり、大荒れする。
 気象庁の予報官よろしく想像を膨らませていた太郎の目の前に、突然、陽子の顔がぬうっ、と近づいてきた。大きな目に涙が一杯たまっている。太郎はあせった。大いにあせった。これまでにないピチッピチのショートパンツ、これまでにない至近距離、これまでにない涙。
「ひっ、ひっ、ひっ、く、く、ひっく」
至近距離の顔が、突然、ぐにゃあっと歪んだ。
「ひっ、ひっく、ひっく・・・」
「陽子、しゃっくりか?」
「ひっく、ひっく、ひっ、う、う、うぇーん、う、う、うぇーんうぇーんうぇーん」
超弩級の声が「蜃気楼」中に響いた。他にいた二組ほどのアベックの客が、八つの目をまん丸くして見ている。
「うぇーん、うぇーん、びー、うぇーん、ひっく、びーびー、うぇーん」
そんなことおかまいなしに、至近距離の顔は泣き続け、いきなり立ち上がると太郎の横に立ち、太郎の首根っこを掴んで立ち上がらせ、うぇーんうぇーん、びー、うぇーん、と大きな目からぽろぽろ涙を流しながら、太郎の胸で泣き続けた。
 陽子は、太郎の肩くらいの身長で、、顔が太郎の胸にしっくり納まる条件を完備していた。(俺の胸で泣きな、とはいってもなぁ、こんな公の場所ではなぁ。もう少しTPOを考えて欲しいぞ、俺的には)そう思いながらも、泣き続ける陽子の肩を、そっと抱いている太郎であった。
 太郎は、陽子が意外と小さくて、その肩も意外とか細くて、その胸は意外と大きいことを実感しているらしかった。
 彼女のこれまでの人生で、これほど大泣きしたのはおそらく初めてだろう。陽子の泣き方はとてもぎこちなく、保育園児並みあるいは免許取り立て若葉マークの泣き方であったけれど、「ほんとに、ほんとに、あたし、悲しい」、全身全霊をかけて、太郎にそう訴えているかのようだった。
 随分長い時間そうしていたような気もするし、随分短い時間だったような気もする。
 ・・・ZZZZZZ・・・ZZZ・・・ZZZ・・・ZZ・・・ZZ・・・ 
太郎の耳に、信じられない音がやんわりと流れてきた。そう、陽子は、眠っていた。太郎の胸に顔を埋めたまま、泣くだけ泣いて、立ったまま、気持ちよさそうに。
 え? 眠ってるし・・・
 結局、この日、何が何だか判らないまま、太郎は、陽子をオンブしてタクシーに乗せ、彼女を家まで送り届け、応対に出た浩一郎に「すみません、すみません」、と例のとおり繰り返し、太郎にオンブされて、気持ちよさそうに眠っている陽子を、「娘さん、お届けにきましたぁ」などと、宅配業者みたいな気の利かないセリフを吐いて浩一郎に引き渡したのだった。
 ギロリ! 浩一郎の目が鋭く光ったことはいうまでもない。

     (四)

 陽子が広告代理店のコピーライターになり、太郎がN大学の大学院に進むと、二人の登山熱は、天井知らずで上昇していった。
 まずは、大学院に進んだ太郎の著しい変貌について記さねばならない。
 太郎は、これまであれ程のめり込んでいた「あしたのジョー」と「健さん」の世界をバッサリ捨てた。理由は簡単で、単に飽きたから、ということになる。その後に出て来たのがアルピニストへの道である。彼は、熱しやすく冷めやすい男の典型だった。
 大学院入学初日、ゼミ担当の教授に
「教授様、ワタクシ、山岳部に入って北アルプスとか行きますデス。どうかヨロシクお願い致しますデス、はい」
 彼なりの精一杯の敬語を使って、そう宣言した。
 困惑顔の教授を研究室に残し、サークル長屋へと向かう太郎の脳味噌には、もう研究の「け」の字も残存していなかった。その代わり、北アルプス、ヨーロッパアルプス、アイガー北壁などの幻影が浮かんでは消え、消えては浮かんでいた。
 山岳部はなかなか見つからなかった。
 (山岳部、山岳部っと。まさか、ねぇんじゃないだろうな)
一抹の不安が太郎の胸をよぎった。
 行ったり来たり、をうんざりするほど繰り返し、やっぱ山岳部ないんだ、そう諦めかけてサークル長屋を出ようとしたそのとき、出入口右側にある部屋のドアがサッと開いた。
 そこから出てきたのは、伸び放題の髪と髭、かつては白色であったろうことを彷彿とさせるコットンシャツ、あちこちに穴の開いたGパンの真正ホームレス?
 開けられたドアには、英語で「N・University Alpine Club」と書かれていたのだが、日本語モードの山岳部しか頭になかった太郎は、その「N・University Alpine Club」が、「ここですぅー、山岳部ここですってばー」、そう何度も何度も絶叫していたのに全く気づかなかったのだった。
 どうにかこうにか、山岳部の部室に辿り着いた太郎は、早速、そのホームレスに訊ねた。
「おじさん、ここに住んでるホームレス?」
「は?」
「だから、ホームレスでしょ、おじさん」
「へ?」
「う〜ん、耳、遠いんだね。可哀相に。栄養のある物めったに食えねぇからそうなったんだ。うんうん」
「あのう、僕は、ホームレスじゃありません。山岳部の部長をしている藤間(とうま)といいます。医学部四回生です」
「えっ、ト、トンマ?」
「いや、トンマじゃなくて、藤間ですっ! 藤に間と書いて藤間」
「ホームレスのトンマ・・・さん?」
「ち、違います。ホームレスから離れて下さい」
 太郎はすかさずそのホームレスから遠ざかった。
「だからぁ、そうじゃなくて、ホームレスから離れ・・・じゃなくて、ええと、とにかく僕は、ホームレスじゃなくて部長なんです!」
「部長? 山岳部の? ホント?」
「本当です」
「トンマさんが、部長?」
「トンマじゃなくて、藤間ですってば!」
「あーなるほどねぇ。トンマさんじゃなくて藤間さん、で、山岳部の部長なんだ。そうならそうと早く言ってくれればいいのに」
「だから、さっきからそう言ってんでしょ!」
藤間部長は、自分の存在をやっと正確に認識したらしい目の前の栄養失調のゴリラのような顔をした男を、精も根も尽き果てたように呆然と見つめていた。
「山岳部に入部します。よろしくお願いします」
 目の前の栄養失調ゴリラが、突然、大声でそう怒鳴ったものだから、藤間部長は、腰を抜かさんばかりに驚いて、おもわず「ど、どうぞ・・・」そう返事をしてしまった。

夏がやって来た。
 太郎は、メンバー三人と共に山にいた。
七月二○日から八月四日まで、台風接近のまっただ中で、半ばヤケクソ的に敢行された南アルプス雨の縦走。
七月二○日 曇り時々小雨
 クネクネした林道をテクテク一時間ほど歩いて畑雛の大吊り橋に出た。
 太郎は、大学院一年ではあるものの、新入部員という立場上、年下のリーダーに従わざるを得ない。
 (この大吊り橋を、この重荷背負って渡る訳? 俺、超気が進まない。高所恐怖症だし)いきなり、高所恐怖症を発症させる太郎だった。
 しぶしぶ、ぶつぶつながら、やっとのおもいで大吊り橋を渡りきった頃から雨がひどくなってきた。大急ぎでポンチョを取り出し、頭からスッポリ被る。
 ひたすら下を向いて、リーダーの足ばかりを見て、景色を眺めるどころではない。
 一二時五○分、ウリッコ沢小屋に到着。昼メシ、昼メシ。準備してきたレーションを取り出し、ポリタンの水をコッヘルに注ぎ、ホエーブスで沸かす。湯が沸いてきたところで、
一番安い日東紅茶のティーパックを投げ込み、色をつける。
 レーションというのは、いわゆる行動食で、N大山岳部の定番は「ナリ」といわれるものだ。
 「ナリって、ナーリ(なーに)?」
 太郎はそう訊ねたが、年下の先輩二人は、無言。仕方なく、分解されたバームクーヘンぽいナリを頬張ると、お、以外といける。
 太郎は、紅茶を何杯もお代わりしながら、あっという間にナリを平らげてしまった。隣を見ると、同じ新入部員の北が、ナリを両手で持ってリスのようにモゾモゾ食っている。
 「北、ほら、あそこ、見ろ。すげぇ美人」
北が太郎の左手が指さす方を見た瞬間、太郎の右手がキスリングの上に乗せられた北のレーション袋にさっと伸び、素早くナリを掴みだした。太郎は、それを目にも留まらぬ早業で口に放り込み、目を白黒させながら紅茶で流し込んだ。
 北は、太郎が指さした方を見て、しばらくの間、美人を探すことに神経を集中させていたが、そんな美人がこの山の中にいるわけもなかった。
「守田さん、美人いませんね」
(いるわけないじゃん、こんな山ん中に、アホかこいつは)
「残念だったなぁ。もう森の中に入ったんだろな、きっと」
「そうですね。残念です、僕」
「北さぁ〜、お前今まで人に騙されたことねぇだろ?」
「はぁ」
「お前のレーション、少し減ってねぇ?」
「いいや、減ってないようですけど」
(う〜ん、疑うことを知らない純朴な青年よ、君の未来は暗いぞ)
 たっぷり一時間の昼食休憩をとって、身も心も腹もたっぷりになった太郎は、元気もりもり状態を復活させた。それで、トップを歩く年下のリーダーを後から追い立てるように足早に「五○分歩いて一○分休み」を繰り返し、それでも、元気溌剌、リーダー追い立てをやるものだから、たまりかねたリーダーは、
「おい、こら、俺は牛じゃないぞ!」
振り向きざまそういい放った、が、タイミングが悪かった。よそ見しながら歩いていた太郎は、振り向いたリーダーに、そのままドン、と追突した。哀れリーダーは、「ぎゃっ」と言って倒れ、四○キロのキスリングに押しつぶされたカエルのようになってしまった。
 午後三時 横窪小屋到着
 今日はここまで。メシだ、メシだ。頭の中は、メシのことしかない太郎だった。が、晩メシの時間には、少しばかり早かった。
(ちょっと小腹がすいたな、よしっ!)
 太郎は、北をひっぱって小屋のゴミ捨て場に直行した。
「う〜ん、なかなかリッチな食い物があるなあ、な、北」
「えー、これ拾うんですか?」
「決まってるじゃん。しっかり匂って拾えよ。腐ってたら多少ヤバイから」
「多少って、ホントウに危険ですよ。食中毒にでもなったどうするんです」
「大丈夫、俺の辞書に食中毒という言葉はない」
「それって、ナポレオンですね」
「そ、ナポレオンは落ちてないか?」
「そんなもん、こんな所に落ちている訳ないじゃ・・・あ、あっ、あった!」
「おー、それがナポレオンか。北、お前相当豊かな暮らしてるな」
「ま、オヤジがいつも飲んでるやつと同じですから」
「それ、入ってるのか?」
「ちょっ、ちょっと待って下さい」
 チャプ、チャプ、チャプ
「おお、入ってます、入ってます、入ってます」
「トイレじゃねぇんだから、そう何回もいうな。そうか、そうか、入ってるか」
「ええ、音がします、ほら」
 チャプ、チャプ、チャプ
「ほんとだ、音がするぞ」
「はい、音がします。早速先輩たちに報告しなくちゃ」
「待て、北。お前、何のためにそんなことするんだ。ちょっとそのナポちゃん俺によこせ」
「どうするんですか?」
「いいからよこせ」
「はい、どうぞ」
「うん、素直でよろしい」
言うが早いか、太郎はそれを飲んでしまった。
「あー、守田さーん」
「う、う、ヴー」
「ど、どうしたんですか?」
「ヴー、ヴー、ヴー」
「だ、大丈夫ですか、守田さん?」
「きっ、きっ、北、お前これ舐めてみろ」
「だって、もう残ってないでしょ?」
「残ってるって。少し残しておいた。お前のために。俺がナポちゃん一人占めするようなそんな姑息な人間に見えるか?」
「ええ、見えます」
「ほんと、お前は無意味に素直だな。ま、飲め」
「それじゃ、遠慮なく・・・」
 ゴク、ゴックン、ヴ!
「ヴッ、ヴー、グーッ、ヴー」
「どうだ、北、これがナポちゃんの味か?」
「グ、グ、グェー」
「どうした北。死にそうな顔して」
「も、も、守田さん、これナポレオンなんかじゃありませんよ、水ですよ、水!」
「えっ?」
「水です。雨水です。しかも、これ、なんかボウフラ浮いています」
「そ、そうか。いやあ、俺、今までナポちゃんなんて飲んだことねぇから、ナポちゃんってこんなもんか、と思って飲んだんだけどな。そうか、ボウフラ入り雨水か、どうりで、そこはかとない自然の味がした訳だ」
「何、訳の判らないこといってるんですかっ、ん、もうっ!」
「ん、もうっ! って、北君キャワイーイ」
七月二一日から七月二七日の間は、雨やガスとの闘いで、それでもなんとか聖岳、兎岳、赤石岳を踏破し、三伏峠まで辿り着く。
七月二八日 雨
 午前五時一五分発、九時三○分塩見岳着。山頂は、三六○度の展望が開けているはずだ。遠くに日本一のお山富士山が見える、はずだ、たぶん。
 (どうも富士山って山、好きになれねぇんだよな、俺って一番、俺ってグレイトって言ってるみたいで。そのくせ、エベレストなんかの前じゃ、へいへいあっしは、あなた様にはかないません、どうせ、田舎者ですから、へへへ・・・、そう媚びを売っているみたいで、今日は見えなくてよかった)
 他の登山者たちを押しのけ、そのうちの一人にシャッター押しを無理矢理押しつけて、パーティ四人で写真に収まる。背景には、雨に煙る南アルプスの山々。
 この四人がいる空間に悪臭が充満しているのか、四人を中心に半径二メートル以内に他の登山者はいない。この日の塩見岳頂上を俯瞰すると、きっとそこだけが円形脱毛症のように丸く空いているだろう。
N大山岳部のパーティ四人は、何も頂上での眺望を愛でるために遠路はるばる南アルプスくんだりまでやって来たのではない。
 じゃ、何のため?
 そう、突っ込まれても、さぁ? と首を捻るばかりの鈍さが、彼らの持ち味だ。
 塩見岳山頂を後に、北俣岳からコウモリ岳を経て熊ノ平着、一九時五分。
 北俣岳から熊ノ平までは、ダラダラの尾根道なのだが、北君が、頻繁に「キジ撃ち行きたいです」を連発し、他の三人もその度にストップして彼のキジ撃ち終了を待っていたため、えらく時間がかかってしまったのだ。
 どうも、北君、七月二一日に、太郎とコッソリ飲んだ「ナポちゃん雨水ボウフラ入り」が今ごろになって効いてきたらしい。その顔には、「もう僕、ゲリビチのビリビリです」そうはっきりと書かれている。
「北、なんか調子悪そうだな?」
「い、いえ、僕、大丈夫です」
「おー北君、我慢強いね」
「はい、よくそう言われます。ゼイゼイ」
 肩で息をしながら北が応えるのをあざ笑うかのように、雨が降りだした。
 『ああ、無情!』ってこんなシチュエーションを言うんだろな、きっと。
 北のことはさっさと忘れて、雨の心配を始めた太郎は、
 (このまま降りつづけば、明日は沈殿確実だな。休みじゃ、休みじゃ。ウヒヒヒヒ)
一人、お休みモードに入り、ウキウキ、イキイキ。
 その隣で、北は、ビチビチ、ションボリ。
 太郎の願いが天に通じたのか、翌七月二九日は朝から土砂降り。沈殿。
 しかし、四人がゴロゴロしているテントには、上から下から雨水が染み込んできて、快適な休息とはとてもいえない状態になっていた。太郎を除いて。太郎は、雨水など全く気にするそぶりも見せず、大イビキをかいてひたすら眠っていた。
 (ある意味すごいよなこの人)
 北が、太郎に対する若干の尊敬の念を抱き始めていることに、爆睡中の太郎が気づかなかったことはいうまでもない。
実のところ、北は、寝るどころではなかったのだ。横になったかとおもえば、腹がグルグルゥ、と鳴き出し、強烈な便意が彼を襲ってきた。あわててテントの外に出て、トイレにしゃがむ。トイレといっても、地面に穴を掘っただけのものである。そこにしゃがんで、雨に濡れながら、ウンチョスを放出する自分の惨めな姿を、ふる里の父や母や恋人が見たらどんなにか落胆するだろう(こんな姿、父や母や恋人にぜーったいに見せたくない!)。
 医者の息子で育ちの良すぎる医学部一回生の北にとって、この体験が、後日、彼に
一種のふてぶてしさを与え、一種の野性味を与えた、と太郎は思った。が、北本人はもちろん、周りの誰もそんなことは思いもしなかった。
七月三○日 また雨 出発
 ヤッホー、また沈殿、お休み、と早とちりした太郎は、登山靴をのーんびりと掃除をしていた。
「おい、守田、出発するぞ」
「は? 出発?。雨こんな振っているのに、何で? 俺たちを遭難させたい訳、君は?」
「ソウナンです。なーんて俺が言うと思うか、この!」
「ざ、残念。いま一歩で、最悪ダジャレ聞けたのに」
 午前七時三○分出発。三峰岳、間の岳、農鳥岳とひたすら歩く。
 雨は土砂降り、風は強風。四人ともガタガタ震えながら、無言。
「写真、写真」
 その写真のまん中に、ニコニコ顔の太郎、右と左にガチガチ顔の年下の先輩二人。哀れ
北は、写真だけ撮らされて、写してはもらえなかった。
 農鳥岳山頂直下にテントを設営し、ビュービュー強風に吹かれながらシュラフにくるまってすぐ、ゴウゴウ大イビキをかいて寝込んでしまったのは太郎で、「会いたかった、会いたかった、会いたかった、イエーイ」イヤホンでひっそりとAKB48の歌を聴きながら、ふる里の恋人を思い、人知れず涙しているのが北であった。
七月三一日 雨 出発
 日本第二の高さを誇る北岳山頂、って、なーんにも見えないじゃん。
 太郎は、登頂の感動にうち震える前に、寒さにうち震えていた。
 北岳バットレスもよく見えねぇし、最悪、極悪非道。
 とにかく、
「北、写真」
「はい」
 またも、同じ位置どりで、またも北は、撮るだけの人で写してもらえる人にはなれなくて、そのことに気づく者もいなかった。やはり、育ちの良さは時として不利に働くようだ。
八月一日 雨 沈殿
八月二日 雨 出発
 雨続きで、うんざり。
 ぶつぶつ言いながら、野呂川乗越、仙丈岳通過、大滝到着、設営。
八月三日 晴れ
 入山以来初めてのお日様。
 大喜びの太郎と北。ついでに年下の先輩二人。
「さあ、張り切って行こう!」
元気溌剌モード全開の太郎。
「ええ、そうですね。元気に登りましょう」
 やっとゲリモードから解放され、生来の育ちの良さを取り戻した北。
 ついでに、年下の先輩二人。
 ポリタンを満タンにして、出発。
 北沢峠を過ぎ、甲斐駒ヶ岳に向かう。ゆっくりしたペースでの登りであったため、周囲の山々を堪能できる。
 甲斐駒ヶ岳の登りは、遠目にはかなり緩やかに見えたが、実際に登ってみると、結構きつい登りもありで、変化に富んでいる。しかし、何といっても、全山真っ白に輝くそのご偉功は、まさに圧巻である。
思わず頭を下げたくなる神々しさ。白い貴婦人、とケーキ屋さんみたいな名前で、つい呼んでみたくなる美しさ。花崗岩の白に太陽の光が反射し、あたり一面キラキラと輝いている。その光に包まれ陶酔状態の太郎の耳に
「僕、このまま死んでもいいです」
 きっぱりとした北の言葉が飛び込んできた。
「じゃ、死ねば」
「ええ、いつかそうします」
「そう、そうしなさい。そのときは、俺、お手伝いしてやるし」
「守田さんの、守田さんの世話にだけはなりたくありません」
「何で? 人の好意はありがたく受けるもんだよ、北君」
「何ででもです!」
「そう、北君、俺のこと嫌ってるんだ」
「いや、嫌っている訳ではありません。むしろ、ある意味尊敬してるんです」
「そう、北君、尊敬してるんだ、俺のこと。ね、ね、俺のどんなとこ尊敬してる訳?」
「人の気持ちなんか全く考えないところです」
「北君、君って、ほんと正直だね」
「はい、よく人からそう言われます」
「無意味に正直って言われるの?」
「いや、無意味に、はありません」
「じゃ、正直だね、って言われるんだ」
「そうです。僕自身もそう思います」
 甲斐駒ヶ岳で、大感動した四人は、最後の難所である鋸岳へと向かう。
 途中、道が完全に切れており、また、水を補充できなかったこともあり、やぶこぎにつぐやぶこぎに、全員バテバテになりながら中ノ乗越にようやく辿り着き、テント一張りがやっと張れるスペースを見つけ設営。
 正面には、赤茶けた第二高点の岩壁が圧倒的な威圧感を持ってそそり立ち、不気味な感じさえする。
八月四日 晴れ後雨
 昨夜からの水制限で、全員、喉カラカラ状態。ガレ場を登り切ると、第二高点に着く。赤錆た鉄剣が一本突き刺さっている。
 大ギャップからのルンゼをトラバースするとき、岩肌を伝う水を発見。
「リ、リーダー、水っす、水」
「判っている」
「リーダーは、リードする人、ですよね」
「そうだ」
「俺と北は、新入部員ですよね」
「そうだ」
(こんなときだけ、リーダーリーダー言いやがって、こいつ何か企んでるな)
 そう思ったリーダーであったが、喉の乾きと太郎の巧みな誘導のせいで、チョロチョロ流れる水を岩肌から直接ゴクゴク飲む。他の三人は、ゴクッと喉を鳴らす。
「大丈夫だ、心配ない」
「そんな早く判るなんて、信じらんない。もう少し様子見ましょうリーダー」
(こいつ、俺をモルモット代わりにしてるし・・・)
 我慢すること十分、リーダーに異常がないことを確認した太郎は、リーダーをはねのけ、その流水にむさぼりついた。
 はねのけられたリーダーは、危うく岩壁から滑り落ちそうになり、真っ青になって必死に岩にしがみついていた。
「んー、も、最高。なんか苔の味がして、自然満喫って感じ」
「北、お前飲めよ」
「ええ、場所代わって下さい」
「は?」
「ですから、宇田さんのいる所、僕と代わって下さい」
「そこら辺さがしてみろよ。水流れてるはずだ」
「流れてません」
「北君、君、言うときははっきり言うタイプ?」
「はい」
「あっ、そ」
 太郎は、北に場所を譲った。
 北も、今回は安心して水を飲んでいた。
「ほんと、おいしいですね。水がこんなにおいしいなんて、今まで知りませんでした」
 感極まって泣きそうな顔をしていう北を見た太郎は、何て感動的な奴、育ちの良さは、こういうちょっとした瞬間に出るんだな、そう思っていたく感動していた。
 五メートルほどの岩登りを、全員難なく通過して第一高点へ。快晴ではなかったもののそこでは、今まで縦走してきた南アルプスの山々を一望することができた。
 太郎は、うーん、と背伸びをした。
 北も、うーん、と背伸びをした。
 山々が最後の最後にプレゼントしてくれた素晴らしい景色に、四人はすっかり魅せられていた。
 
感動を胸に縦走を終えた四人が、チープな民宿でしばしの休息をとっていると、熊ソックリな民宿の主人が部屋にやって来た。
「守田さんってこの中にいるんかな?」
「はあ、俺ですけど」
「あ、女の人から電話」
「え?」
 民宿の入口近くに設置してある電話の所まで歩いて、受話器をとった太郎の耳にいきなり飛び込んできた怒鳴り声。
「太郎、あんたいったいどこウロウロしてんのよ! あんたが、八月一日には山を下りるっていってたから待ってるのに、ウンともスンともいってこなくてぇー、もう!」
(よ、陽子だ。どうしてここが? それに俺八月一日に下山する、なんて言ったかな?)
「八月九日までには、絶対帰っておいでよ。帰ってこなかったら、あんたなんかとはもう絶交!」
「わ、判った、判った。落ち着け陽子。でも、なんで八月九日なんだ?」
「えっ? あんたそれマジでいってんの? あたしの誕生日だよ、バカ!」
ガチャン! プープープー・・・
あっ、と思ったが、もう遅かった。
 そうだ、入山前に陽子と約束してたんだ、バースディ登山。
 陽子から強烈な叱責を受けた太郎は、それ以後行われる予定の北アルプス定着合宿を、早々に放っぽらかして、一路、車窓の人となった。今回は、太郎にはめずらしく、M駅到着時間を陽子に連絡していた。
 
 陽子は、M駅改札口で太郎を待っていた。
 (待つオンナ・・・って、なーんかロマンチック・・・ふふ)
 太郎の乗った汽車がM駅ホームに着いた。
 乗客のほとんどが改札口から出てしまった後に、大きなキスリングを背負った髭ぼうぼうのホームレスがゆっくりと歩いてきた。その姿を見た陽子は一瞬迷った。
 (あたし、知らんぷりしようかな?)
そのホームレスが右手を挙げて「おお」と言いながら改札口を出て来た時、陽子は反射的にクルリと反転し、その場を立ち去ろうとした。
 その時「おー、陽子、陽子どこ行くんだ、俺だ、俺」ホームレスが大声で叫んだ。
 陽子は、その大声に渋々反応して、仕方なく本当に仕方なく声のした方を振り向いた。
 こうして目出度く再会を果たした二人は、いつものようにM駅前の食堂に直行し、いつものように店員や客の冷たい視線を無視し、カツ丼とビールを注文。
 太郎が山に入っている間のいろんなこまごましたことを喋り続ける陽子。熱心に聞くふりだけしている太郎。
「あたしさぁ赤いキャラバンシューズ買ったんだ。それでね、これ履いて高岳に登りたいな。あそこに月見小屋ってあるじゃない、そこに泊まって日の出を見るの!」
 (勝手に山行プラン立ててるし・・・)
「見るの! ってもう決めてんだ」
「そう、決めてんのっ!」
「ふーん」
「じゃ、そういうことで、太郎はどっか適当な所でゆっくり汗流して、髭剃ってさっぱりした格好で来なきゃダメだよ、判った?」
「うん、判った」

 陽子のバースディ山行は、八月八日M駅午前一○時発の鈍行列車でスタートした。陽子は、赤いキャラバンにモスグリーンのニッカボッカ、黄色の長袖シャツ、という信号ファッション。彼女に言わせれば、遭難した時目立つらしい。
 太郎は、前日と同じ服装ではあったが、髭を剃って幾分こざっぱりしていた。
「こうして、のーんびり鈍行で行くのも風情があっていいね」
「まあな」
「あたしね、太郎、明日、太郎に言うことがあるんだ」
「何で明日よ、今言えばいいじゃん」
「だーめ、明日だよ、ア・シ・タ」
「ふん、もったいぶって、どうせあの店のケーキがおいしいとか、クレーのあの絵がどうたらこうたらとか、テコンドーの真髄とかそこいら辺の話だろ」
「ふっふっふっ、かもね」
 それにしても今日はまさに登山日和、快晴、突き抜けるような青空、吹き渡る心地よく・・・ない硫黄臭の風・・・
 「五○分登って一○分休み」を繰り返し、高岳頂上に午後四時に到着。頂上からは阿蘇五岳が一望できる。太郎にとっての高岳山行は、南アルプス縦走のクールダウンであり、陽子にとっては、初めての本格的登山ということになる。
 頂上に立って四方を見渡していた陽子は、夏の光をいっぱいに浴びて、風に吹かれている。
「ここがいいわ」
「は?」
「ううん、何でもない」
 頂上からの眺めを満喫した二人が、少し下った所にある月見小屋に着いたのは午後四時四○分。夕食は、陽子のバースディ前祝いということで、太郎がN大山岳部に代々伝わるあの幻の『Nちゃん』を作ることになっていた。
 太郎には意外とこまめな所があり、昨日『Nちゃん』の材料を仕入れ、下ごしらえまでしていたのだった。『Nちゃん』は、その名前通りN大学のNを形取った、いわく言い難しの鍋料理めいた物で、これほど好き嫌いがはっきり分かれる料理も珍しい、と食した人たちから評され、それもまたひとつのこの料理の魅力となっている。
 太郎は、下宿でもしょっちゅう『Nちゃん』を作って、ハフハフ言いながら食っていた。
 一応研究者の卵としての研究心を発揮して、彼なりのバリエーションレシピもいくつか作っており、その中でも陽子が一番喜びそうな『激辛パンチNちゃん』を今日は精魂込めて作り、飲み物はラッシーにしよう、そう決めていた。
 ホエーブスの青白い炎が、コッヘルの中の具材を煮込んでゆく。いい匂いがしてくる。側で眺めていた陽子が、
「なんか、おいしそうだね、ビールなんかもあったら最高だね」
 ご機嫌で言う。
「ビール、ありますよ、ほら、ヨ・ウ・コちゃん」
「おっすごい! ギネスじゃん」
「そ、ギネス、冷えてないけど」
 『激辛パンチNちゃん』もそろそろ出来上がったようだ。小屋にいるのは二人だけ。
「陽子、一日早いけど、ハッピーバースディ」
「ありがと」
 ギネスとラッシーと『激辛パンチNちゃん』が二人をこれまでになく、素直にしていた。

翌日早朝、日の出前
「太郎、起きて!」
けたたましく陽子の声が響いた。
「ん!?」
「起きて、早く、早く。頂上行くよ」
「えっ?」
 太郎は、何が何だか判らないうちに寝袋から引っ張り出された。
 東の空がすこうし明るくなりかけた中を、高岳山頂に向かって無言で歩く。
 ようやく山頂に立った時、陽子が太郎の目を見つめてきっぱりと言った。
「太郎、あたしね、あたし、来年、絶対、教員採用試験通るからね。約束する、絶対通るって。合格祝い予約したからね。今度はこの前よりうまく泣けるようにするから、太郎、胸空けておいて、判った?」
 胸に飛び込んできた陽子を、太郎はそっと抱きしめた。
 太陽が昇ってきた。
 朝日の中に一つになった二人のシルエットがあった。 


散文(批評随筆小説等) 陽子のベクトルは太郎を指向するのか Copyright 草野大悟2 2014-08-11 23:03:05
notebook Home 戻る