「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問に対する問答
りたわめゆ


え? なぜ人を殺してはいけないのか? だって?

どうしたんだい? 突然そんな質問をするなんて、

ずいぶん元気がいいねぇ
何かいいことでもあったのかい?

まあ、冗談はさておいてだ。

その疑問に答える前に、ひとつ考えてほしいことがある。
それは「なぜ人は『人を殺してはいけない』と人に教えるのか」ということだ。

ん? なんでそんなことを考えてほしいのかって?


だって、君がそんな疑問を持つようになった原因っていうのは、
「人を殺してはいけない」というようなことを「人から教えられてきた」からじゃないのか?


と、そう思ったからだ。


親、 友達、先生、もしくは、見ず知らずの他人でもいい、「教えてくれる人」は沢山いるし、
家庭、学校、旅行先、新聞、テレビ、ネットなどなど、「教えられる機会や場所」も沢山あっただろう。


「表現の方法」つまり「言い方」は人それぞれだろうし、「解釈の仕方」つまり「受け取り方」も人それぞれだろうけれど、
少なくとも「人を殺してはいけない」というようなことを、君は「たったひとりで思いついた」というわけではないだろう?


まあ、仮に自分ひとりでそんな考え方を持つに至った人が居るとして、
まったく独自に「人を殺してはいけない」と理解した人がいたとして、

そんな人はたぶん「なぜ人を殺してはいけないのか」なんていう疑問は、持たないだろうし、
たとえそんな疑問を持ったとしても、その答えも独力で見出せているだろうから、
今回はそんな超人のことは考えに入れなくてもいいだろう。


だからここでは、君の質問が生まれた背景とか理由とかに、思いを巡らせてみたわけだけれど、
その理由は考えるに「人から教えられて知ったからだ」とするのが妥当だろうなと、そう思ったわけさ。


さて、そんな「当たり前のこと」を踏まえた上で――というのは、つまり・・・
僕らは「人に教えられて、人を殺してはいけないということを知った」という


前提を


確認した上で、


改めて聞くけれど、



「なぜ人は『人を殺してはいけない』と人に教える」のだろう?



まあ、こんなこと当たり前すぎて、もったいぶるものでもないから、
あっさり答えてしまうけれど、


「人は『殺すことの意味』を『知っている』から、殺してはいけないと教える」


というのが、答えだ。・・・簡単だろう?


知らなきゃ教えられないんだから、当然だよね。
じゃあ、そんなことを教えてくれる人が、「何を知っているのか」を考えてみようか。


「人を殺してはいけない」と教えてくれるくらいなのだから、もちろん、


「殺すこと」つまり「生物が死ぬとどうなるか」とか「命を奪うとはどういうことか」とか
要するに「生きものの生き死に」について、その意味や内容を「知っている」のだろうと、推測できるよね。


早い遅いの違いはあるだろうけれど、いずれ人は「生死」について「知る」ときが来る。
感じ方の違いはあるだろうけれど、人は「人の死」について「分かる」ときが来る。


そのことは、君の人生経験がもう既に、証明していることかもしれないし、
人によってはこれから、証明されることなのかもしれないけれど、
たしかに人は間違いなく、例外なく、必然的に「知る」ことになるだろうね。


たとえ、人の本質をつく聡明な質問を問いかけてくれるほど、頭が良い君でも、
脆弱な心理の間隙を縫うようなきわどい疑問を抱いた、繊細な心の持ち主である君でも、
この事実に、疑いを挟めるような余地とか隙間を見出すことは、難しいんじゃないかな。


ま、それはそれとして、
どのような形でそれが知らされることになるかは、わからないけれど、
一生涯を通じて全く「死」について「知らされない」という人は、おそらくいないだろう。


生きている限りは必ず、死を目の当たりにするときが来る。
そのことを「理不尽なこと」だと思う人はいても、そのことを「否定できる」人はいない。


「死を否定できる」と言うのは、突き詰めて言えば、
「永遠に生きつづけられる」とか「生き返らせることができる」と言うのと、同じだからね。


もちろん君が、死を否定したくなる気持ちは、分からなくはないよ、でも、
その死を、自分のものであれ、他人のものであれ、その事実を、否定することなんて、人にはできない。

死というものは、そういうものだから、人がいくら抵抗してみたところで、
望むと望まざるとにかかわらず、いつかかならず「知らされてしまう」。残念ながらね。


さてそんな時、つまり「生き死に」について「知ることになった」ときに、
自分が「知った」ことを、人に「伝える」というのは、人にとっては至極、自然なことだろうね。


殺された人のことや、その人に近しい人のことを、
テレビでは「被害者」とか「犠牲者の親戚や友人」として、その悲痛な叫びを「伝えて」くれるし、

そんな大切な人を失った人の「言葉にならない哀しみ」を、身近に、間近に目の当たりにすることは、
テレビなんかで見るよりも、目撃した人の心に、その激しさが「伝わる」ものだ。


そうやって人は、人には、

間接的であれ、直接的であれ、

感覚的であれ、観念的であれ、

何かを「伝えたり」、何かが「伝わったり」することがある。


「伝える」というのは、此れがなかなか難しいもので、
言いたいことが言えなかったり、知られたくないことが知られたり、
本人の意思や意向に沿わないことが多くて、ままならないことの方が多いものだ。


けれど「伝えるという行為」をまったくしないという人はいない。


自分が何もしなくても「伝わってしまう」ことすらあるのだから、
人として生きていたら、「伝える」という行為から逃れることはできない、ともいえるのかもしれないね。


人が何かを「伝える」こと、「知らせる」こと、「教える」こと、

人に何かが「伝わる」こと、「知られる」こと、「教わる」こと、


それらを通じて、人が何かを「知る」ことは、人にとってものすごく当然なことで、
疑義を挟む余地がないくらい、息をするのと同じくらい、ごっつい自然なことやで。


おっと、なぜか関西弁になってしまったね。ごめんごめん。
別に深い意味はないんだけど、なんとなく気分的に、使いたくなったのさ。


だって僕らはそうやって今を「生きている」からね。

今僕が突然口調を変えたのも、一時の気の迷いってやつであって、
そうやって「生きることの機微」ってものを唐突に楽しみたくなっただけだし、


今僕が、こうやって君に何かを「伝えよう」と語りかけているのも、
そうやって「生きている」からこそ、できることだからね。


人は、今も昔も、自らが「知ったこと」とか「分かっていること」を人に「伝えて」きた。
昔からそうやって「生きてきた」し、今もそうやって「生きている」。

だから「伝える」というのは、人にとっては「生きる作法」とか「生き方そのもの」のようなものだ。

「人が人に伝える」ということは、人にとって当たり前で、必然的で、しかも正当な作法だ。
だから、君が最初に抱いたような疑問も、そんな伝統的なやり方を経て「生まれて」きたと言える。

視点を変えて言えば、「人として生きていれば、人が疑問を生み出すことは当然だ」と、言うこともできるのかもしれない。


どんな化学反応が君の中で起こったのかは、わからないけれど、いずれにせよ、
「伝える」という「人があたり前にやっていること」、その当然の帰結の一つとして、

つまり――ある種の「必然性」を持って――君の疑問は生み出された、と言っていい。


さて、覚えているかな?
最初に僕は、君の疑問が生まれた背景や理由を想起して、
それを分析して見せたわけだけれども、ここで新たに「別の理由」が浮かび上がったね。


最初のときには「人から教えられたから」という、状況証拠的な理由として述べたけれど、
そもそも「人が人に教える」すなわち「伝える」ということは、

「生きる作法」とか「生き方そのもの」といったものであって、
つまり「人の本質」に関わることだということが、ここまでの話で君も分かったよね。


ならば、君が答えを得るために、僕に疑問を「伝えた」ということは、
だれもが、あたり前にやっている、人にとって本質的で、必然的なことがらであって、

つまり、君が人から「伝えられて」疑問を抱き、その疑問を人に「伝えた」。
そのようなやり方で、作法で、君が疑問を生み出した「真の理由」と言うのは、


「『伝える』というその行為自体が『人の本質』に基づくものであるから」、ということに他ならない。


少し分かり難いかい?


そうだな、これを別の言い方で表現するなら・・・
逆説的に聞こえるかもしれないけれど、


「君が人だから、その疑問は生まれた」ということだ。


こんなふうに言われると、なんだそりゃ、って感じるかもしれないけれど、
このことは僕ら人にとって決定的に重要だから、よく覚えておいてほしい。


さて、この話も、もうすぐ終わるから、
あと少しだけ、つきあってくれるとうれしいよ。


「人の本質」つまり、それを失ってしまったら、それを止めてしまったら、
もはや「人である意味や理由」がないとすら言えるものに、関わることだったから、
いや、むしろ「人である理由」そのものだったから、君の疑問は生まれてきた。

「人が人に伝えること」を止めてしまったら、もっと具体的には「ツールを使った意思の疎通」を止めてしまったら、
乱暴な言い方をすれば「人の言葉を理解しない」なら、「それ」は「人ではない生きもの」になってしまう。


たとえば僕が何かを言っても、君が応えてくれないなら、僕の「伝えよう」という行為に意味など生じない。
僕は、君が人として、僕の言葉に「応えて」くれる、「堪えて」くれると、そう信じているからこそ、
こんなくだらない疑問に、正面から応えようと、答えてみせようと、そう思ったわけだ。


おっと、誤解しないでくれよ、
僕は、君の感想を聞きたくて、こんなことを言っているわけではないんだ。


「応えてくれなければ、伝える意味はない」なんて言ってしまったから、
一応、先んじて指摘しておくけれど、ここで言う「応える」というのは「返事をする」という意味じゃない。

もちろん君が、このテキストを読んで感じたことを、僕に「伝えてくれる」のは大歓迎だけれど、
僕の目的は、そんなカタチで「返答」をもらうことではなくて、どんなカタチでも「反応」してもらうことだ。


つまり、これを読んで、要するに、僕の話を聞いて、
君が何かを「思った」なら「感じた」なら、それでいいのだ。


もっと言えば、僕の話を聞いて、君が何か、新たな意見を持たなくても、漫然と読み流してしまっても、
読後に爪あとを残せなくても、忘れ去られてしまっても、それはそれで、かまわないんだ。


君が僕の話に、耳を傾けてくれたことこそが、僕にとって意味のあることなのだから。
僕が君を「人であると証明するため」には、充分に意味のあることだから。


君が僕の意見を聞いて、賛成しようが反対しようが、どっちだってかまわない。
物申したいことがあろうとなかろうと、どうだってかまわない。

僕は君の行動に、一切の制限をしないし、それはできないことだからね。

でも、君がここまで読み進めた時点で、おそらく僕の目的は、既に達成されている。
つまり、君の疑問に対する「証明」は完了している。


よく考えてみてくれたまえ、

君がここまで読んで「時間の無駄だった」とか「期待したほど内容はなかった」とか感じたとして、
それを、コメントに書こうが書くまいが、論破を試みようが黙殺しようが、罵倒しようが無視しようが、


僕は君について、こう考えるだけなのだ。


僕の言葉を理解して「応えてくれた人」は「人」である。
僕の言葉を理解せず「応えてくれない人」は「人ではない生きもの」である、と。


「人ではない生きもの」


その意味するところのものを、君も、もう分かっているよね?


「殺すこと」つまり「生物が死ぬとどうなるか」とか「命を奪うとはどういうことか」とか
要するに「生きものの生き死に」について、その意味や内容を「知っている」。


にもかかわらず


「生きている人」を「殺す」ことが、どんな意味を持つのか。


君はもう、「知っている」よね。


「人を殺した人」は、もはや「人」ではなく、「化物」と呼ばれる事を。
「人の形」をしていても、もはや「人」ではないと、看做されることを。


君はもう、「知っている」よね。


・・・そうだ、そういえば「知っている」かい?

「化物」の「化」という字は、怪異文字もとい会意文字で、
偏の「亻」は「人の立ち姿」、旁の「匕」は「体をかがめた姿、又は、死体」をあらわしているんだ。


そう、つまり「死体の前に立つ人」のことを、あらわしているんだよ。
そしてその意味は「人の状態が変わること」。文字の成り立ちと言うのは、実に意味深長だよね。


「人の死は人を化物に変える」


だから僕は「なぜ『人』を殺してはいけないのか」という疑問には、こう答える。
最初に君に投げかけた質問の回答で、既に答えているけれど、大切なことだから、何度でも、こう答える。


「人は『殺すことの意味』を『知っている』から、殺してはいけないのだ」と。
「人は人を殺すと人ではなくなるから、人で居たいのなら殺してはいけないのだ」と。


君は僕のことばを、僕の話の意味を、少しは理解してくれたかな?
頭の良い君のことだから、言われなくたって、「知っていた」だろうけどね。


と、まあ、ものすごくあっさりと、唐突に終わるけれど、
ここまで長々と、付き合ってくれて、どうもありがとう。
これでこの話はおしまいだ。


君の疑問の解消に、一役買えたのなら、僕にとってこれ以上、嬉しいことはないよ。
もちろん君が、僕の提示した答で、説得されただなんて思ってはいないし、
ましてや納得しただなんて、これっぽっちも思ってはいないよ、


でもそれは、僕の役目ではなく、君の役目だ。


君の疑問を解消するのは、君の仕事であって、僕のではない。
自分を納得させるのは、自分の役目であって、他人のではない。そういうことさ。


僕はあくまで、君が自分の役目を果たせるように、
人の道を踏み外さないように、間違った方向へ歩かないように、
少しだけ正しい方へ君を傾けて、背中を押してあげただけさ。


「人は誰かに助けてもらうのではなく、自分で勝手に助かる」ものだからね。




「なぜ人を殺してはいけないのか」
このような疑問は、人の世が続く限り、どこかで誰かが、時空を超えて、抱き続けるんだろうね。

まあ、今回は試しに例として、今、僕の信じるところの理由を述べてみたわけだけれど、
僕に言わせれば本当は「人を殺してはいけない理由」なんて、なんだっていいのさ。


「法律で禁止されているから」という「倫理」がしっくりくるなら、それを採用すればいいし、
「自分がされたくないことを人にしない」という「道徳」が馴染み深いなら、それでもいいし、

「人に迷惑をかけるから」でも「残された人が悲しむから」でも「人の尊厳を奪うから」でも、
「建前」がなんであれ、それが君の中で「明確な歯止め」になるのなら、表現方法はなんだっていいのさ。


本当に大切なのは「人として超えてはいけない一線を知ること」であり、
つまりこの場合は「人を殺さないでいられる明確な理由を、君が持つこと」なのだからね。

そして、その理由を君が、「自ら見出す」ことができるようになると信じて、
僕の話が、君の視野を少しでも広げる、きっかけになると信じて、僕はこれを書いてみたんだ。


「人を殺してはいけない」なんてことは、一人では思いつけないことかもしれないけれど、
だれか、教えてくれる人が居なかったら、思いつかないことかもしれないけれど、

「人を殺さないようにしよう」なら、一人でも簡単に思いつけるだろう?


「人を殺さない理由」なんて「人から教わる」ようなことでも、ないんだからさ。

なんなら、ためしに友達に聞いてごらんよ、「君が人を殺さないのはなんで?」って、
きっと友達は目を丸くしてこう言うだろうね! 「おまえ、大丈夫か?」ってさ。


え? そんなことを言ってくれる友達はいない、だって?
・・・なるほど、それこそが本当の問題なのかもしれないな、君の場合は。


さて、本当に此れでこの話にけりをつけようか。
君が僕のことばの「真意を知って」応えてくれると信じているよ。

君には「人」で居てほしいからね。




散文(批評随筆小説等) 「なぜ人を殺してはいけないのか?」という疑問に対する問答 Copyright りたわめゆ 2014-08-02 20:20:46
notebook Home 戻る