杳子
HAL
古井由吉が芥川賞を取った作品と同じ名前
それが本当に女の名前だったかはもう朧だ
苗字も聴いたか聴かなかったかで分からない
よく行く馴染みの飲み屋で働いていた女
ただその女が注文を聴いたりしていた時だけ
店に少女と淫靡が入り交じる異質な空気を感じた
一緒に暮らしたのは十月からの三ヵ月
ただ身を寄せる所がないので置いて欲しいとの
女の言葉に断る理由もなかっただけのことだ
男鰥夫の部屋が綺麗になったこと
料理も洗濯も家事もしなかったこと
ぼくの生活の変化といえばそのくらい
ただ女とは一度しか関係を持たなかった
ぼくが寝入ったと想ったのだろう
女のすすり泣く声を聴いてしまったからだ
また女は一緒に食事を摂らなかった
一緒に食べないかと一度だけ声をかけたが
後で頂きますと答えたのでもう詮索はしなかった
大晦日の前日にしめ飾りを買いにいくと
すぐに戻ると言った切りその女は
除夜の鐘が衝き終わっても戻っては来なかった
何か事情があったのだろうと想うだけで
戻ってくるかもとの浅はかな期待は抱かなかった
それは希望の一種であることは分かる歳になっていた
希望にも由るだろうが大抵の希望は期待が生む
ただ希望と期待を見分けるには多少は苦いものを
飲み込んで来なければならないことは知っていた
杳子にはもう二度と逢えないだろうと
こういう場合に最も信頼できる直感が告げていた
あの大晦日からもうすでに十六年が過ぎ去った昔語り