たったひとつ
千波 一也


産声のなかで
ひとりの娘が母に変わる日は
生命にまつわる大切な記念日
わたしのためには
何にも起きたりしない平凡な日でも
見知らぬ誰かには
たったひとつの日

雑踏のなかの
ありふれた服屋に並ぶ数枚のシャツ
わたしはそれを持っていて
幾度となく袖を通してきたけれど
服屋に並ぶそれは
わたしのシャツと同一ではない
匂いも住所も記憶も異なる
たったひとつの衣

喧騒のなかに佇む少年少女
その横を通り過ぎるとき
わたしはどんな大人でいようか
つかの間の
ごくありふれた往来の一場面でも
少年少女には
大人というものを
窺い知るには十分なわたしであろう
大きなゴールへつながる無数のうちの
たったひとつの道標

電線の上で
羽を休める一羽の鳥
その下で交わされた約束のこと
描いてみせた夢のこと
引き継ぎたいと思った物語のこと
例えわたしが忘れても
その鳥だけは忘れずにいるかも知れない
たったひとつの証書
のように

風に洗われるようにして
わたしから離れる
汗も涙も溜め息も
まったく同じ成分では出来ていないから
まったく同じ名前でなんか
呼べやしないのに
つい、呼んでしまう
汗と涙と溜め息と
たったひとつの水
なのに








自由詩 たったひとつ Copyright 千波 一也 2014-07-20 21:05:15
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