クラブマリノス
草野大悟2
薄暗い姉達の部屋で、僕はズボンとパンツを脱がされ、ただぼんやりと立っていた。
「いーい、健太はおちんちんの病気だから、今から先生達が診察してあげるからね。じっとしてるのよ、判った?」
「うん」
「それじゃ患者さん、そのベッドの上に寝て下さい」
上の姉に言われるままにベッドに横になった。三人の姉達は、代わるがわるおちんちんを引っ張ったり、しごいたりして診察してくれた。
病気なんだ、死ぬかもしれない、そう思うと涙が溢れてきた。
「あら、この子泣き出しちゃった」
真ん中の姉が可笑しそうに言った。
「大丈夫よ、もうすぐ診察終わりますからね」
上の姉が優しい声で言った。
「そうよ、もうすぐ終わるから」
下の姉も言った。
姉達におちんちんを弄られているうちに、だんだん硬くなって我慢できなくなった時、躰全体から急に力が抜けた。
「あー、この子射精したわ!」
「へー、こんなチビでも出るんだ」
「そうねぇ、あたし初めて見た」
姉達は、興奮気味に話しながらおちんちんを眺めていた。僕は、初めての感覚に戸惑っていた。小学三年になったばかりだった。
今でも、三人の姉から弄られて硬くなったペニスの感覚が蘇ってくる時がある。
父は刑務官だった。小学校の時からやっている柔道で、県体や国体で優勝したことがある、いつもそう自慢していた。
女の子ばかり三人続いて、今度こそ男の子を、と夫婦で「男の子の産み方」を熱心に調べ、最も確からしい方法を実践した結果僕が産まれた。
両親はとても喜んで、男の子は男らしく、女の子は女らしく、という当時最も一般的だった教育方針に沿って僕を育てた。
父は、歩き始めたばかりの僕に、特注の柔道着を着せて刑務所の道場に連れていった。とても楽しそうに、満面の笑顔を浮かべて。
僕は、その頃から色白のぽっちゃり体型で、目だけはクリクリと大きかったから、保育園のみんなからは、シロブーちゃん、と呼ばれていた。
「シロブーちゃんはおめめが可愛いね」
そう言われると無性に嬉しくなって、目を精一杯大きく見開いてにこにこ笑っていた。
シロブーちゃん、という渾名が決っして褒め言葉ではないことにうっすらと気付くようになったのは、小学校に入学してからだった。 柔道の名門といわれる高校に入り、全国から集まった高校生達と激しい練習をし、そこそこ強くなっていた。学校の成績は悪かった。授業そのものがまるっきり判らなかったし、判ろうという気もおきなかった。
柔道部の監督は熱心な体育教師で、大学時代、全日本で優勝したことがある。
監督は、試合で負けたり、練習で気を抜いたりすると腕立てと腹筋を各々五〇〇回やらせ、竹刀で尻を容赦なく打った。そんな時は
顔をゆがめながら耐えるしかなかった。
部員の中から、「可哀想、あそこまでやる必要ないよ」という呟きが漏れた。僕が密かに憧れている相良君の声だった。相良君は、色白でハーフのような面立ちの男の子だった。
監督は、相良君も隣に腕立て伏せの格好で並ばせ、道着の下を引きずり下ろして、剥き出しになった尻を竹刀で力一杯打った。相良君の白い尻にみみず腫れができ、やがて血がにじんでくるのを僕は横目で見ていた。
「いいかぁ、貴様ら、今度練習で手抜いたら承知せんからな! 判ったか!」
「はい」
「声が小さーい!」
「はい!」
「ようし、今日は上がってよーし」
監督はそう言い残し、道場から出て行った。
「相良君ごめんね」
「いや、いいよ、君のせいじゃないし」
「でも、血が出てるし」
「そーお? ママにどう言い訳しようか?」
「そのまんま話せば? 監督に竹刀で打たれたって」
「そうだね、そうしようかな」
大きな目を伏せてしょんぼりと頷く相良君は、いたずらが見つかって叱られた少年のようだった。
大学でも、似たり寄ったりのシゴキが、当然のように行われていた。
大学二年の夏、クマゼミがうるさく鳴き、押しつぶすような暑さが僕らを包んでいた。
彼は、僕と同じ大学でやはり柔道部に所属していた。高校時代と少しも変わらない瞳と小柄な躰をしていた。
相良君も僕に好意を寄せているようだった。
夏休みに入ったばかりのその日、練習が終わって冷たいシャワーを浴びていると、隣にいた相良君が、「僕の部屋で一杯やらない?昨日新潟から辛口のいいお酒が送られてきたんだ。どう?」そう僕を誘った。二つ返事で誘いにのった。
相良君の部屋は、六階建てマンションの最上階にあった。2LDKの広さのある室内は、学生の一人暮らしとはとても思えない贅沢な調度品と家具が、それを主張するでもなく、
さりげなく置かれていた。
「僕の実家、新潟で代々続く造り酒屋なんだ」
少し照れたように僕を見た。そんな相良君が、切なく、愛おしくて思わず胸に抱きしめてしまった。
しばらくの間じっと抱き合っていた。
「この日本酒に合うおつまみ作るね」
相良君は、僕の腕をすり抜けキッチンに向かった。
対面型キッチンで料理する相良君を見ていると、何だか夫婦になったような気がしてきた。
「取りあえず、これで先にやってて」
蛍烏賊の醤油付けとホッキ貝のサラダがテーブルにのせられた。
キンキンに冷えた江戸切り子の徳利と猪口で日本酒を飲んだ。口に含んだ途端、米の馥郁とした香りが口いっぱいに広がった。さらりとした外連味のない酒だった。
「相良君、これほんとおいしいね」
「そお、よかった。今年の新酒で、今年はこれまでになく出来がいいんだって」
「へえー」
その日相良君が作ってくれたのは、鯨のハリハリ鍋だった。クーラーの効いた部屋で、はふはふ言いながらポン酢で水菜と鯨を食ベていると、なんだかとても幸せな気分になった。相良君はこぼれるような笑顔を浮かべて僕をじっと見つめていた。
彼は、とても素敵なパートナーになった。 大学を卒業するまで二人で暮らした。僕らはいつも一緒だった。買い物も、散歩も、寝るのも。彼は熱を帯びた目で僕を見つめるようになった。
「新潟に帰って実家を継ぐ」と言って胸にとびこんできた彼は、僕の胸でわんわん泣いた。
それっきり会って話すことはなかった。
一年後、相良君から年賀状が届いた。小さな女の子を抱っこした相良君と奥さんが写っていた
裏切られた、と思った。
彼は僕だけのもの、ずっとそう思っていたし、彼も僕だけをずっと愛してくれている、と信じていた。
何もかもをぶちまけようとして新潟に行った。彼の実家はすぐに判った。新潟駅の案内で訊ねると、ああ八海酒造ですね、そう言ってパンフレットに印を付け、交通手段と金額まで教えてくれた。
駅からバスに乗り七つ目のバス停でバスを降りた。バス停から五分ほど歩くと大きな酒蔵が見えた。何代も続く由緒ある酒蔵であることが一目で判った。
僕は、道を挟んで反対側にある雑貨店の陰から、しばらくの間酒蔵の入口に吊るされている杉玉を見ていた。突然、入口に相良君が姿を見せた。駆け寄ろうとしてやめた。笑顔の相良君を追いかけるようにヨチヨチ歩きの女の子が出てきた。
逃げるようにその場を後にした。結婚するということはこういうことだ。子供を作り、育て、夫婦仲良く一生を添い遂げることだ。
僕は、自分がそんな人生にとても不向きにできていることを十二分に理解していた。三人の姉にいたずらされたあの日から、男しか愛せなくなっていた。
就職する気もなく街をぶらついていた時、大学時代の柔道部の先輩に出会った。なにくれとなく世話をやいてくれた人だった。
先輩は、僕が就職もせずにいることを知ると、「お前にぴったりの仕事がある。前に一度警察の手が入っているが、今はちゃんと風営の許可を取っているから心配ない」と、クラブマリノスのママの仕事を紹介してくれた。
クラブマリノスが、県内に一店舗しかないロシア人ニューハーフの店だと聞かされた時、僕はマリノスのママになることを熱望した。相良君のことを忘れさせてくれる子に出会えるかもしれない、という儚い望みがあった。
面接で、経営者の森さんというお爺さんに志望動機を訊かれ、正直にそう答えた。森さんは、ククク、と小さく笑った。
採用が決まって挨拶に行くと「好きなようにやってごらん。わしは一切口出ししないから」そう言ってクックック、と笑った。
僕みたいなズブの素人に店を任せるなんて、このお爺ちゃん少し痴呆が入っているのかな? と思ったけれどそうではなかった。森さんは僕の中に同性愛の気質があること、そのことが店で働くニューハーフ達に安堵感を与え、結果として店の売り上げも上がることを熟知していた。
クラブマリノスは、県内随一の繁華街に建つ森ビル八階にあった。店の中央には、高さ十センチ程の五角形の舞台が設けられており、それを取り囲むように四十のボックス席がある。僕がママになってからずっと、客足が途絶えたことはない。いつも、店の目玉となるショーを色々と考えてきた。今は、ロシア人ニューハーフが五人一組で行う「ロシアンルーレットショー」と「アンナの蛍ショー」をメインに据えている。
ショーは、一日に五回、三十分単位で行う。それ以外の時間、彼らはホステスとして客の接待をする。ロシア人ニューハーフ達は、全員、在留資格「興業(ダンサー)」で日本に入国し、三ヶ月間の在留期間が認められている。ほとんどの場合、彼らは在留期間を更新し、六ヶ月間日本に滞在する。
入管難民法の「資格外活動」での検挙を避けるため、ショーの時間を多くしていた。彼らの在留資格は、「興業(ダンサー)」である。資格外の活動となるホステスとしての稼働時間が、勤務時間の七割から八割を占めると、「専(もつぱ)ら性あり」と判断され検挙対象になるのだ。
濃い紫色の闇に、うす水色の光と白い尻が浮かんでいる。
うす水色の光は、ふわふわと宙を漂ったかと思えば、猛スピードで回転する。
「アンナの蛍ショー」が始まった。白い肌にブラックライトが艶めかしく映える。
「ねぇ、聞いてるの? 私の時計壊れたよ」
横に座って、先程からさかんに話しかけてくるイリアの言葉を、倉岡はぼんやりと聞いていた。舞台では、アンナが尻にケミホタルを挟みそれを蛍のように動かす踊りを続けている。
「倉岡さん、ほら、これ針が動かなくなったよ」
イリアが少し苛ついて、蛍踊りに見入っている倉岡の目の前に、左腕を突き出した。時計は、午後十一時二分を指している。
時計は、四年前に倉岡がプレゼントしたセイコーのアナログである。
オープン一年目のマリノスを無許可風俗営業で検挙した時、倉岡は初めてイリアと出会った。
その時、イリアはまだ十八歳だった。日本に来たのは初めてで、日本語をほとんど理解しなかった。どうみても女としか見えない彼は、そのころはまだペニスを切ってはいなかった。
店に踏み込んだ倉岡ら捜査員に、オオカミのような目をして挑んできたのがイリアだった。
倉岡は我が目を疑った。
(紗織・・・・・・)
一年前に癌で他界した妻がそこにいた。紗織は性同一性障害者だった。男の躰に女の心を持っていた。倉岡が付き合い始めたころには性転換手術を受け、戸籍上も女になっていた。
イリアは猛然とロシア語で捲し立てた。通訳のおかげで、倉岡はやっとその意味を理解した。
「私達は何も悪いことはしていない。ビザもちゃんと持っている。パスポートもある。私達は、家族に送金しなければならない。日本の警察は、なぜ、そんな私達の邪魔をするのか。私達が働かなければ、国の家族は食べていけない」
拳を小刻みに震わせながらイリアは叫んだ。血走った青い目には、涙が浮かんでいた。現場は、客とニューハーフと捜査員とサザンの曲とで騒然となっていた。
倉岡は、イリアの取調べを担当した。彼は、イリアの興奮が治まるのを待った。目から充血が消え、ロシア人特有の海のような青い色に戻った時、倉岡はゆっくりと話しかけた。
「今日、ボックス席に座ってお客さんと話したり、水割りを作ってやったりしていたらしいけど、間違いないね?」
「ええ、間違いないわ、それがどうかしたの?」
それだけで十分だった。無許可営業の取調べは、他の事件に比べると比較的簡単である。イリアが、客の接待をしていた事実を引き出せばいい。それでも、通訳を介しての取調べは、倉岡にはまだるっこく感じられた。
イリアは、
○給料は月一○万円で、五万円を両親に送 金していること
○自分の生活費は残りの五万円と客からの チップにより賄っていること
○両親は漁師をしていること
○姉二人妹四人がおり男の子は自分だけで あること
○金を貯めて、将来はフードショップを経 営したいこと。
などを、ぽつりぽつりと話した。先程店でみせた怒りは、すっかり治まっていた。
その日の午後十一時三十分頃には、倉岡はイリアの取調べを終えた。心の中に、〈お父さんと同じ時計が欲しい。家族が暮らすロシアの時間を知りたい〉というイリアの言葉が、その面差しとともに妙に痛々しく残った。
この事件を検察庁に送致し、他の事件に追われる日常に戻った倉岡の心から、イリアの姿が消えることはなかった。
一年が過ぎた頃、署のデスクでパソコンをたたいていた倉岡に、イリアから電話がかかってきた。また日本に来た、マリノスで働いているという。
倉岡は、イリアがセイコーのアナログ腕時計を欲しがっていたことを思い出し、時計専門店で時計を買って、その日の夜、久々にマリノスに出かけた。
一年ぶりに見るイリアは、ますます女っぽく、美しくなっていた。倉岡が腕時計を渡すと、
「お父さんのと同じ。これで私お父さんの時間が判る」
倉岡に抱きついて、全身で喜びを表わした。
イリアは、この時は三ヶ月だけ働いてロシアに帰っていった。その後、渡り鳥のように日本との行き来を繰り返し、今回で五回目の来日になる。来日回数が増えるのに比例して、彼の日本語は上手くなっていった。
「イリアはいい子よ。ううん、ここに来る子はみんないい子。家族思いなのよ、日本人と違って」
蛍ショーを終わったアンナが僕と倉岡とイリアがいるボックスに座り、氷を浮かべたビールを旨そうに飲みながら言った。
アンナは、今マリノスで働いているロシア人ニューハーフ達のリーダー的存在で、大柄な躰に似合わず、とても気配りがきき、神経も細やかである。
「ね、倉岡さんそう思わない?」
「そうだな、ここの子らは本当にいい子ばっかりだ。可愛いし、性格もいい、な、ママ」
「そうよ、みんないい子よ。ところでね倉岡さん、イリアね、今度、自分のモノ切っておっぱいもこさえて帰って来たの。それに戸籍上も女になったの。うちの店、ほら、パーフェクトニューハーフ給料高いでしょ、だから、ね、イリア」
「そ、これで大丈夫ね。お金いっぱい貯めて海の近くで商売する」
「海か、海の近くか・・・ 早く、そうなるといいな」
僕は、倉岡とイリアの間に漂う、お互いを気遣うような微妙な空気に気付いた。しかし、この場では話題にしない方がいいような気がした。
倉岡は、イリアに新しい時計を約束して店を出た。彼のカシオのデジタル時計は午前一時を表示していた。エレベーターで一階まで下り、ビルの外に出ると粉雪が舞っていた。
大学卒業と同時に離れ離れになった相良君には手紙も出していないし、メールもしていない。その方が彼も喜ぶだろう、きっと。
かつて愛人関係にあった男がふいに訪ねて来たり、メールをよこしたりすることは、彼にとってはそう愉快なことではないはずだ。まして、奥さんや子供までいるのでは尚更だ。
僕は、次第にイリアに惹かれていった。
イリアは、マリノスのナンバーワンだ。客からの指名も断トツで多い。別に客に媚びを売るのでもなく、むしろ客の話をじっくり聞くことに徹している。話を聞きながら時折鮮やかに微笑んでみせる。その微笑みに多くの客が魅せられているのが判る。
「ママ、相談があるの」
店がはねた後、イリアが店内の僕の部屋に来て言った。
「なーに? 深刻な顔して」
僕は、軽くそう応えた。
「実はね、実は・・・ 私、結婚しようと言われてるの」
「結婚! だ、誰から?」
「ママ、驚かないで聞いてね」
「大丈夫よ、たいていのことには驚かないから。んで、誰なの?」
「あのね、倉岡さん」
一瞬頭の中が真っ白になった。イリアの口から倉岡の名前が出るなど考えてもいなかった。
倉岡さん、ってあの警察の倉岡さんなの?なんで? 頭の中で疑問符が幾つも飛び交っていた。倉岡は、男だったイリアが性転換手術を受けたことは知っているはずなのに、なぜ? 新たな疑問符が涌いては消えていった。
冷静を装って尋ねた。
「イリア、あなたが冗談を言ってるとは思わないけど、倉岡さんってもしかしてあの刑事さん?」
「そう」
「いつ言われたの?」
「三回目に日本に来た時、この店でね彼が言ったの。真剣な顔して、結婚してくれって」「あの人がそんなこと言うんだ。あたし大抵のことには驚かないって言ったけど、これはサプライズだわ、しかも超弩級の」
「ママどうしよう?」
「国のお父さんやお母さんは何て?」
「あなたの人生だからあなたの思うとおり生きなさいって」
イリアは、ふーっ、と大きなため息をついた。逡巡している訳が僕には判りすぎるほど判っていた。結婚すると、警察組織内での倉岡の立場が悪くなる、と心の底から心配しているのだ。自分のことより先に相手のことを大切にする。僕は、イリアがその優しさ故に倉岡との結婚を諦めるのではないか、と不安になった。
この子の人生を左右することになる大問題に、そう軽々に答えを出すべきではない。倉岡の真意を確認することが先決問題だ、僕はそう判断した。
結局この日は何のアドバイスもできずに、ただイリアの話を聞くことに終始した。
翌朝、倉岡に電話をかけ、折り入って相談したいことがあるから今日会えないか、と尋ねた。倉岡は、マリノスの近くにある「山脈」という喫茶店で昼頃会おう、そう答えた。
昼が待ち遠しかった。何をやっても落ち着かず、2LDKのマンションの隅々まで意味なく掃除をして時間をつぶした。
僕は何をしようとしているのだろう。倉岡がイリアをさらっていくかもしれない。なのに、自分がその橋渡しをしようとしている。自問自答を何度繰り返しても答えは出てこなかった。
「山脈」には少し早めに着いた。倉岡はまだ来ていなかった。この喫茶店は照明が程ほどに暗く、客席も柱などで仕切られているため、誰からも邪魔されずにじっくりと話をするにはうってつけの店だった。
倉岡は、十二時を少し回ったころやって来た。濃紺の背広に真っ白いシャツが長身の彼によく似合っていて、とても刑事には見えなかった。
「倉岡さん、お忙しいところ申し訳ありません」
立ち上がって頭を下げた。
倉岡は、にっこり笑った。この笑顔を僕はとても気に入っていた。倉岡は、トアルコトラジャを注文した。僕も同じものを頼んだ。
コーヒーが運ばれて来ると、ゆっくり飲みながら僕を見つめ、「ママが会いたいというからにはよっぽどのことだろう、イリアとのことしかないと思うけど?」と言ってにっこりと笑った。彼が笑うと、大きな目が優しく下がり、周りの空気までがにっこりと笑うようだった。笑顔を見て覚悟を決めた。
「倉岡さん、イリアと結婚するってほんと?」
「うん、ほんとだよ」
倉岡は、何でもないことのようにさらりと答えた。
「でもなんでイリアなの?」
「彼女じゃないとだめなんだ」
「だから、なんで」
「イリアはね、癌で死んだ僕の妻そのものなんだ。」
「えっ? どういう意味?」
「妻の沙織と何もかもが似ている、ということさ。性同一性障害を抱えていたことも、性転換手術をして女性になったことも、容姿も、性格も、何もかもね」
倉岡は、僕の目を真っ直ぐ見つめながら淡々とイリアとの結婚を決めた訳を語り続けた。
「イリアとは、クラブマリノスを無許可営業で検挙した時初めて会った。驚いたよ、死んだ沙織が目の前にいるんだもの。彼は十八歳だった。一目惚れ、というやつかな? とにかく彼女のことが片時も頭から離れないようになった。それで、三回目に彼女がマリノスに来た時、結婚を申し込んだ。彼女は驚いていたよ。そして、僕のことを心配してくれた」
「じゃ、イリアは奥さんの身代わりなの?」
「いいや、そうじゃない。僕はイリア本人が大好きなんだ」
「そう、でも結婚が法的に認められるわけ?」
「もちろん。外国の多くの国ではね」
「日本ではどうなの?」
「日本では男同士の結婚は認められていない」
「それじゃ結婚なんて出来ないでしょう」
「そうだね。でもイリアは母国で女への戸籍変更を済ませている。だから、僕とは何の問題もなく結婚出来るんだ。日本人の配偶者という在留資格で僕と三年間暮らしたら、特別帰化手続きを取って日本国籍を取得しようと話している。結婚式はイリアの希望でもあるんだ。この件についてはあの子の家族にも伝えてある」
「そおー、難しいことは判んないけど、仮に結婚したとして、倉岡さんが警察内で冷遇されるんじゃない?」
「だろうね、たぶん」
「それでいいわけ」
「もちろん」
倉岡は、二回目のもちろん、を何のためらいもなく口にした。
僕は、倉岡の真剣な眼差しと真摯な受け答えに彼の人柄をみたような気がした。この人なら何があってもイリアを守ってくれる。愛し続けてくれる。確信めいたものが心の中に大きく広がっていった。
「倉岡さん、イリアのことくれぐれもよろしくお願いします」
また立ち上がって深々と頭を下げた。
倉岡も立ち上がり、
「こちらこそよろしくお願いします、健太さん。みんなを連れて是非結婚式にもおいで下さい」
僕の本名を言って頭を下げた。
その夜僕はイリアに、倉岡との結婚は君にとってベストチョイスだ、と自信を持って告げた。イリアは、こぼれるような笑顔で倉岡との結婚を決め、僕はイリアへの思いを断ち切ることを涙ながらに決めた。
結婚式の案内状は、マリノスの全スタッフに届いた。
みんなイリアと倉岡を心から祝福したかったし、僕ももちろんみんなと同じ気持ちだった。僕たちが大挙して式場に押しかけることで、イリアがニューハーフであることが露見するのではないか、との危惧が大きな黒雲のように覆い被さっていた。倉岡に電話を入れてそう伝えた。黙って聞いていた倉岡は、「全然かまわないよ」と言って笑った。携帯の向こうに爽やかな笑顔が見えるようだった。
イリアにみんなの心配ごとを話すと、「倉岡さんとも話し合って、私が男だったって判ってもいいという結論を出しているし、私自身も一向に構わない」、きっぱりと言い切った。
結婚に対する二人の強い意志を知って思わず涙を流してしまった。二人の気持ちは店のみんなにも伝えた。
二人ほどの強い気持ちがあれば、あの時相良君と別れずに済んだのかもしれない。おそらく相良君は僕の曖昧な気持ちを見透かしていたのだろう。彼に、地元に帰って家を継ぐ、と言わせてしまったのは、僕だ。
二人がどうなっても応援しよう、固く心に誓った。
結婚式の三日前、アンナが部屋にやって来て尋ねた。
「ママ、ママはイリアの結婚式には出席するんでしょ?」
「もちろんよ」
「でも、私達が大勢で行くとイリアに迷惑じゃないかしら?」
「なんでそう思うの?」
「だって・・・」
「大丈夫よアンナ。前にも言ったように二人ともそんなこと気にしないって言ってる。あなたが心からイリアのこと考えてくれているって判る。私とてもうれしいよ、ありがとう」
アンナは安心したように微笑んだ。彼がみんなを連れて結婚式に行くだろう。イリアと倉岡が心から願っているように。
結婚式当日、披露宴の三時間前にみんながマリノスに集まった。
集合をかけたのはアンナだった。みんなはお互いに洋服をチェックしあったり、髪型を整えたりして準備をした。どこから見ても女の子だった。
携帯が鳴った。倉岡からのメールだった。「皆さんのご出席を心からお待ちしています。イリアの旅立ちを祝い、これからもずっと彼女の良き友達でいてやって下さい」彼の暖かな人柄を思って僕はまた涙を流してしまった。
怪訝そうに見つめるみんなに、メールの内容を伝えた。みんな大きな重しが取れたように晴れ晴れとした顔になって、
「ママ、早く早く、披露宴始まっちゃうよ」 そう言いながらマリノスを飛び出していった。