5 すべてが見えなかった
ここで、問題の「パート三」末尾を見ますと:
「馬車のラツパがきこえてくれば
ここが一ぺんにスヰツツルになる
遠くでは鷹がそらを截つてゐるし
からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし
いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは
(騎手はわらひ)赤銅の人馬の徽章だ」
まず、「馬車」つまり《馬トロ》は、《本部》のすぐ西を軌道が走っていました:
地図A:
http://blog.crooz.jp/svc/userFrontArticle/ShowFiles/?no=263&blog_id=14963971&file_str=14963971263855825c79993200f8b306966ea07406311e386b2.jpg&guid=on&vga_flg=0&y=2014&m=07&d=13&wid=730&hei=816
ですから、「ラッパ」は聞こえたはずですが、《見える》かというと、「パート三」末尾での賢治の位置、つまり《本部》の手前からでは見えません。
当時は今より木立ちが少なかったとしても、《本部》の回りには古い倉庫などの建物が、当時も今もたくさんありますから、ほとんど見通せないでしょう。
馬トロ(写真11):
http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=264
「鷹」は、どうでしょうか?
「遠くで」と言っていますから、遠くの空を切っているのに気づく程度で、姿形が見えるわけではありません。
しかも、木立ちで視界が狭いことを考えれば、ほんとうに空を切るのが見えたかどうかも、あやしいものです。
むしろ、手がかりは、『春と修羅』の出版と同じ時期、同じ用紙
*1に書かれた童話草稿にあるかもしれません:
「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。」(虔十公園林)
次に、カラマツは、このあたりにも植えられていますから、見える樹木です。
もっとも、宝石のように輝く小さな芽まで、通りすがりに見えたかどうかは、わかりません。
問題は、「騎手」と「人馬の徽章」です。
地図A:
http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=263
「いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つた‥」
と言うのですから、旧網張街道の並木道の向こう側(北側)を走って行く競走馬と騎手が見えたと思いたいところです。
しかし、いくら当時は杉並木が低かったとしても、木の間越しでは、ちらっと見える程度でしょう‥
ところが【下書稿(推敲前)】では:
「たったいま心の影の中を行ったのは
立派な人馬の徽章だ
騎手はわかくて顔を熱らせ
馬は汗をかいて黒びかりしてゐた。」
と、まるで間近かに見ているような描写です。
ちなみに、推敲過程で、「心の」は、まっさきに削除されています。
ほんとうに見たのかどうか、あやしい‥w
考えてみると、たんに放牧されている馬が走る、というようなことではなくて、競走馬が騎手を乗せて走るのですから、ふつうの原っぱではありません。整地していなければ、馬はつまづいて怪我するし、人は放り出されるでしょう。。。
実景ありとすれば、訓練用の馬場でなければならない。
農場の「まきば園」にある展示資料館によると、馬場は当時、育馬部よりもずっと手前、農場の外の《大清水》にありました:
地図B:
http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=263
「大清水直線馬場」、「大清水一
哩馬場」という広大な馬場があったそうです
*2
《大清水》付近は、現在では、旧・網張街道の東側に家と木立が立て込んでいるので見通しがありませんが(写真1)、
賢治の当時は、こんなに家は無かったはずですから、旧・網張街道を歩きながら馬場が見えたはずです。
農場に行くたびに、この道を往復しているのですから、競走馬の訓練も見ているでしょう。
「騎手はわかくて顔を熱らせ
馬は汗をかいて黒びかりしてゐた。」
は、賢治の眼に焼きついた情景だったにちがいありません。
その光景が、いよいよ《農場本部》を前にしたとき、作者の心眼に蘇ったのでしょうか:
「‥向ふの並樹をくらつと青く走つて行つた‥」
「くらっと」は、【下書稿(手入れ後)】のことばでは:
「影のやうに行った」
そして、賢治は:
「騎手はわらひ」
と付け加えます。
どうでしょうか?‥すこしは「天上」に近づいたでしょうか?‥w
以上は、下書き段階、つまり、構想段階の断面と言ってよいと思います。
「鷹」と「からまつ」は、いちおう見えたとしても視界の端をよぎる程度の“実景”です。しかし、作者の《心象》には拡大されて見えています。
「馬車」は、じつは「ラッパ」と軌道を擦る音が聞こえるだけです。
実景が見えないからこそ、
「ここが一ぺんにスヰツツルになる」。
そして、広大な馬場を駆ける人馬、──顔をほてらせ、身体を汗で光らせながら、人と馬が一体となって走る姿が、青い影のように作者の《心象》を擦過します。
騎手の「わらひ」は、人には見せない作者の「わらい」でもあるのでしょうか?‥
いわば、“絶対零度の官能”
*3──と思うのは私だけでしょうか?。。。
この印象を説明するには、すこし先まで見ていただく必要があるかもしれません。
地図A:
http://blog.crooz.jp/svc/userFrontArticle/ShowFiles/?no=263&blog_id=14963971&file_str=14963971263855825c79993200f8b306966ea07406311e386b2.jpg&guid=on&vga_flg=0&y=2014&m=07&d=13&wid=730&hei=816
《農場本部》の前を通過したあと(地点?)、作者は《白樺の交差路》で旧・網張街道と分かれ、
"der Heilige Punkt"(デァ ハイリゲ プンクト:「聖なる地」)に入ります(地点?):
「さうです、農場のこのへんは
まつたく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der Heilige Punkt と
呼びたいやうな気がします」(パート九)
写真7,8:
http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=264
ここは「下丸7号」という広大な畑なのですが、今行ってみても、なにかとても神秘な感じがする場所です。おそらく、非常に広い空間が、高さのそろった針葉樹林に遠くから縁どられていて、その一種閉鎖的な空間の真ん中に聖域めいた《四ツ森》があり、《四ツ森》のちょうど向こうに岩手山が聳えている景観が、そんな感じを起こさせるのだと思います。
この《四ツ森》を越えてスロープを昇って行くと、丘のてっぺんに、旧《小岩井小学校》が見えます(↑写真9、10;地点?)
現在保存されている建物は、戦後に建て替えられたものですが、形と配置は、賢治の当時の木造校舎と似ているようです。
「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ
〔…〕
たのしい太陽系の春だ
みんなはしつたりうたつたり
はねあがつたりするがいい」(パート四)
↑この「すあしのこどもら」は、決して作者の幻視や錯乱ではなく、《小岩井小学校》へ運動会の準備をしに行く休日の子どもたちだと推定されたのは、岡澤敏男氏です。氏の推定には十分な根拠があります。
しかし、ここでも賢治は、実景を“写生”しそのまま記録しているわけではない──ということは、明らかです。
「かゞやいてわらふ」
ここまで来れば、もう、風景の「わらひ」、作者の「わらい」は、説明するまでもないでしょう‥
ともかく、どんなに走り、歌い、跳ね上がろうとも、
この作者は、“現場のへその緒”を、いつもしっかりと抱きしめているのです。
(ご完読ありがとうございました)