現場のへその緒(4)
Giton

「小岩井農場」の作品日付は1922年5月21日ですが、じっさいには、この作品のために5月初めから何回か通っており、この日は仕上げのための歩行だったと推定されます。かつて民間牧馬場として多くの優秀な競走馬を育成した小岩井農場でしたが、終戦後の占領政策によって競走馬事業を禁止され、育馬部は廃止のやむなきに至りました。展示資料館での説明によると、創設当時は、本部2階の望楼から農場全体が見渡せたといいます。
4 ぎらっと光ったくらいだ


7月8日午前9時すぎ、私は田沢湖線小岩井駅に降り立ちました。

地図・写真リンク:
 ⇒http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=263
 ⇒http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=264

宮沢賢治が長詩「小岩井農場」を書くためにこの駅に降りた日*1から、じつに92年が経過しています。

あたりの景観は、すっかり変ってしまったところもあれば、変らないところもあります。
賢治の歩いた道は、地形図にプロットしたうえ、私の頭に完全にしまいこまれています。

しかし、ここでは、「パート三」の最後の部分を検討するのが目的ですから、調査行の最初から語ってゆくには及ばないでしょう。

地図A:http://blog.crooz.jp/svc/userFrontArticle/ShowFiles/?no=263&blog_id=14963971&file_str=14963971263f8c03d1d93ad87271b9da72cb1b1f18c07c76231.jpg&guid=on&vga_flg=0&y=2014&m=07&d=13&wid=732&hei=816
↑駅を降りると、家並のあいだを抜けてまっすぐ北へ向かう道があります。賢治が、農場からのお迎え馬車に乗せてもらえず、あとからとぼとぼと歩いて行った道です。
しばらく歩くと、旧・網張街道にぶつかり、左折して、田んぼの中のかんかん照りの道をしばらく行くと、旧・農場入口から農場敷地内に入ります。

旧・農場入口:http://blog.crooz.jp/svc/userFrontArticle/ShowFiles/?no=263&blog_id=14963971&file_str=14963971263141e16f20d6df5ca3932cd6279c04240224a9cf8.jpg&guid=on&vga_flg=0&y=2014&m=07&d=13&wid=692&hei=519

途中は省略してw。。。 旧・育馬部*2の脇を左に折れると、まもなく《農場本部》です。

地図B:http://blog.crooz.jp/svc/userFrontArticle/ShowFiles/?no=263&blog_id=14963971&file_str=14963971263855825c79993200f8b306966ea07406311e386b2.jpg&guid=on&vga_flg=0&y=2014&m=07&d=13&wid=730&hei=816

農場本部:http://blog.crooz.jp/svc/userFrontArticle/ShowFiles/?no=263&blog_id=14963971&file_str=14963971263ce2c007cd201d84e4fbb853a0f59acc7fb82bd33.jpg&guid=on&vga_flg=0&y=2014&m=07&d=13&wid=922&hei=692

《本部》は、賢治の時代から現在まで、同じ建物がそのまま使われています。

長詩「小岩井農場」では、「パート四」の最初に登場しますから、
問題の「パート三」末尾は、そのちょっと手前ということになります。その付近の写真を見ておきましょう:

旧・育馬部付近:http://blog.crooz.jp/svc/userFrontArticle/ShowFiles/?no=263&blog_id=14963971&file_str=14963971263497d5a559b78c7aa4d1a827570218350eb2949d2.jpg&guid=on&vga_flg=0&y=2014&m=07&d=13&wid=922&hei=692

地図と写真をいっしょに見るには、こちら↓(地図A?地点、写真3):http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=263

賢治は、写真3の道を奥のほうへ向かって歩いて行きました‥

どうでしょうか?‥天上とかスイスとか。。。

がっかりしましたか?ww

注意してほしいのは、写真の右のほうに高い針葉樹が密に立ち並んで視界をさえぎっていることです。
地図Aで確認すると、旧・網張街道は《本部》の北側を斜めに横切っていて、その両側に針葉樹(杉)の並木があります。

賢治は、この斜めの並木道を歩いていないのですが、ためしにここへ入り込んでみました:↓(写真5,6)

http://blog.crooz.jp/gitonszimmer2/ShowArticle/?no=264

いまでは使われていない道らしく、猛烈な藪が生い茂っています。しかも、蜘蛛の巣だらけ。。。

私もトレッカーのはしくれ‥藪こぎもいちおうはやるのですが、今回は途中で敗退しましたw ヤブ道の両端から入り込んだものの、途中20メートルほどは、どうしても踏み込むことができません。。

賢治の時代には、この街道は人が往来していて、通れたはずです。杉並木も、当時は背が低かったでしょう*3

しかし、いずれにせよ、《本部》付近から北方、東方は、視界がさえぎられていたと考えてよさそうです。

((5)に続きます)


*1 「小岩井農場」の作品日付は1922年5月21日ですが、じっさいには、この作品のために5月初めから何回か通っており、この日は仕上げのための歩行だったと推定されます。
*2 かつて民間牧馬場として多くの優秀な競走馬を育成した小岩井農場でしたが、終戦後の占領政策によって競走馬事業を禁止され、育馬部は廃止のやむなきに至りました。
*3 展示資料館での説明によると、創設当時は、本部2階の望楼から農場全体が見渡せたといいます。



散文(批評随筆小説等) 現場のへその緒(4) Copyright Giton 2014-07-13 18:39:06
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宮沢賢治詩の分析と鑑賞