現場のへその緒(2)
Giton
なにせ長い作品なので、最初からベタに読めません。当時は、飛ばしているところがたくさんありました。そう思うのは読みが浅いからです。「『小岩井農場』は凝集度が低い」という評価がされていた1950-60年代の批評も、初心者としては笑えません。ここは「パート三」の章末ですから、適切な“不協和音”として聴き取ることが可能ならば、“フリギア終止形”という周知のカデンツになります。じつは、かならずしもそうは言えません。しかし、この数年前の時点では、私はそう思っていました。今回、旧・盛岡高等農林学校(現・岩手大学農業教育資料館)も見学して、当時の教育は、農学というより理化学総合とでもいうべく、基礎科学をたいへん重視したものだったことに、ちょっと驚きました。「トロ馬車」とも言います。現在は「まきば園」の奥に敷かれた遊覧軌道を観光用「トロ馬車」が走っているだけです。ちなみに、誰にも見られない広野を長時間走るので、すいている日にはカップルがよく利用します。これ、オススメですよw2 見えるものと見えないもの
「馬車のラツパがきこえてくれば
ここが一ぺんにスヰツツルになる
遠くでは鷹がそらを截つてゐるし
からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし
いま向ふの並樹を青く走つて行つたのは
赤銅の人馬の徽章だ」
さて、今度は、いかがでしょうか?
分かりやすくなったと思う方は、正常な精神をお持ちです‥
かえって分からなくなったと思う方は、宮澤賢治と同じくらい異常ですw ‥錯乱ですw
どこがちがうか分からない方は、まず昨日のポストの最後を見てください。(それも面倒な方は、コメント欄をごらんくださいw)
このさいですから、何年かさかのぼって、私がこのへんを読み始めた*1ころのことを書いてしまいますと‥はっきり言って、分からない箇所でした。
むずかしいことは書いてない*2のに、なんというか、いまいち分からない‥こんなどっちでもいいことを、なぜわざわざ詩の中に書き込むのか分からない、と言ったほうがよいでしょうか‥*3
そこで、気になる文句を抜いてしまうと(それが、↑きょう出した“変形テクスト”です)、すっきりして読みやすくなったような気がします。
しかし、それでも最後の2行に不協和音が残ります*4:
「‥青く走つて行つたのは
赤銅の人馬の徽章だ」
つまり、「向こうの青いものは赤い」と言っているようなもので、このまま放置したほうが現代詩に近くなるのかも分かりません‥ しかし、それにしても、音のぶつかりあいはあまりにも直接的で、不協和音として聴き取ることも困難です。
ところで、“変形テクスト”に残されているものは、いずれも作者の(そして読者の)目に見えている景物──“見えるもの”です*5
それに対して、「くらつと」、「騎手はわらひ」──これらは、見えているかどうかうたがわしいのではないか‥
“見えるもの”の風景から跳び出して、‥いわば浸食されずに残った熔岩の残丘のように、‥まるで読者の鑑賞を妨害するために置かれているようにさえ思われるのです。
そのころ、私はそう思って読んでいました。
そして、「見えるもの」と「見えないもの」の対比の妙を、この長大な詩篇に追いかけ始めました。この視角は、たしかに示唆に満ちていたのですが、この2つの境目は、いつも流動的で疑わしく、じきに私は、自分の読みが暗礁に乗り上げていると思うようになりました。
詩は多義的だといいます。作者の意図をも超えて多義的に読まれることにこそ、論説とも創作散文とも異なる詩の生命があるかもしれません。だから、人によって理解が異なるのは、あるていどやむをえないし、むしろ、そうした理解の広がりこそが、作品のはらんでいるものの巨きさを示しているかもしれない‥
しかし、そうは思っても、この場合には気休めになりません。人によって理解が異なる‥どころか、同じ私が、読むたびに、きのう、きょう、あしたと‥理解をまったく異にするのでは、これは読み方のほうに問題があると言わなければなりません。。
そのころ、たまたま手にしたのが、岡澤敏男氏の『賢治歩行詩考』です。
賢治がこの長詩を起草したころの客観的な資料で、作品を“批判”してゆくという手法は、あたかも“唯一の真理”の存在を前提する自然科学の方法を思わせましたが、五里霧中の迷路の中では、むしろひとすじの光が射したように新鮮に思われました。
賢治という作者自身が、自然科学の素養と方法を身につけていて*6、自然科学的な方法になじんでいるために、その作品もまた、客観的な分析を受け入れる余地が大きいのかもしれません。
ですから、“詩”一般にまで拡張はできないかもしれないが、こと賢治詩について言えば、実験・検証的な客観的な方法で開かれてゆく可能性は、おおいにあるのではないか──と、私には思われたのです。
「馬車のラツパがきこえてくれば
ここが一ぺんにスヰツツルになる
遠くでは鷹がそらを截つてゐるし
からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし
いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは
(騎手はわらひ)赤銅の人馬の徽章だ」
1行目の「馬車のラツパ」は、岡澤氏によって解明されていました。詩行を読むと、2行目の“あたりがいっぺんにスイスになる”の照り返しで、南ドイツ〜スイスのアルプス地方を走る“郵便馬車”のように思われます。「ラツパ」は、馭者の吹くポストホルンです。
しかし、岡澤氏によれば、この「馬車」は、当時小岩井農場に敷設されていた業務用「馬トロ(ばとろ)」*7で、無蓋車に、耕地へ往復する作業員や荷物を載せて馬に挽かせるだけの簡単なものです。「馭手」は、チャルメラ(昔の豆腐屋さんの、あるいは夜鳴きそば屋の)を鳴らして停車場への到着の合図にしていたそうです。事実は、そういうことで、‥しかし、そのラッパを聞いた作者の心は、たちまちスイスに飛んだわけです。
3〜4行目は、実景として大きな問題がないように見えます。
しかし、岡澤氏の本ではどうしても分からないのが、5〜6行目でした。
((3)に続きます)
*1 なにせ長い作品なので、最初からベタに読めません。当時は、飛ばしているところがたくさんありました。
*2 そう思うのは読みが浅いからです。
*3 「『小岩井農場』は凝集度が低い」という評価がされていた1950-60年代の批評も、初心者としては笑えません。
*4 ここは「パート三」の章末ですから、適切な“不協和音”として聴き取ることが可能ならば、“フリギア終止形”という周知のカデンツになります。
*5 じつは、かならずしもそうは言えません。しかし、この数年前の時点では、私はそう思っていました。
*6 今回、旧・盛岡高等農林学校(現・岩手大学農業教育資料館)も見学して、当時の教育は、農学というより理化学総合とでもいうべく、基礎科学をたいへん重視したものだったことに、ちょっと驚きました。
*7 「トロ馬車」とも言います。現在は「まきば園」の奥に敷かれた遊覧軌道を観光用「トロ馬車」が走っているだけです。ちなみに、誰にも見られない広野を長時間走るので、すいている日にはカップルがよく利用します。これ、オススメですよw
この文書は以下の文書グループに登録されています。
宮沢賢治詩の分析と鑑賞