コンパス
夏美かをる

    コンパス

―家でコンパスを使って円を描く練習をさせて下さい―
先生から届いたメール

 さあ、早速コンパスを使ってみよう!
 こうして物差しで半径の長さを測ったら
 紙に針を刺して、クルってやるんだよ、ほら!
 長さを測る時は、針をゼロに合わせるんだよ、
 それで、そう、紙に針を指して、クルってやってごらん、
 クルって回すんだよ、クルって。
 ああ、針が動いてしまってはダメなんだよ。
 針は動かさないで、クルってやるんだよ、
 ほら、また今針が動いたでしょ、
 針は動かさないで!
 また動いたよ!
 う〜ん、じゃあ、両手でやってみな、
 ああ、違う、違う、足を開かせないようにしないと!
 左手はしっかり針を持って!
 右手を回してごらん!
 ダメ、ダメ、また足が段々開いていってる!
 違うって!左手は動かさないで
 右手でこっちの足を回すの!
 ねえ、また針が今動いたよ、
 ほら、また動いた!
 何度言ったら分かるの?
 ダメ!またダメ! またダメだよ!!
 ねえ、ちゃんとママの言うこと聞いているの?
 またダメだ!またダメ!
 あなたはコンパスで円も描けないの?

娘の目からこぼれ落ちた涙が
母の態を一瞬で剥がし、
ヒステリックな素が剥き出しになる

 もういい!遊んできなさい!
娘からコンパスをひったくって
引き出しの奥に放り込む

ああ、コンパスなんて大嫌いだ!!
コンパスなんかこの世からなくなってしまえ!

それは娘の叫び?
いいえ、無垢な魂を抱く器など持ち合わせぬ女の叫び

この子はこれからコンパスを見る度に思い出すだろう
鬼と化した母の冷たい視線
胸を突き刺す冷酷な言葉
コンパスなんかなければ
真っ白な娘の心に
どす黒いシミをつけることもなかった
娘の苦手がまた一つ増えることも…





 お腹が空いた
下の娘の声に促され 西日の射し入る台所に立てば
包丁が暴走し、指の肉を切りつける
所詮母という衣しか纏えない愚かな女の鮮血が
白いエプロンをあっという間に汚していく

―練習させましたが、円が描けるようになりませんでした。
 どうか、繋がっていない不格好な円でも
 私が彼女の自尊心を傷つけてしまった分
 先生は褒めてあげて下さい―

就寝前まだ火照っている指先で送信ボタンを押す






翌日受信箱に馴染みの太字がポトリと届く

―一生懸命コンパスを使っていました。
 最後にひとつ上手な円が描けましたよ。
 褒めたら、ニコッといい笑顔を見せてくれました―

いくつものくにゃくにゃな円に囲まれた
奇跡的に美しい円
思い通りに動かない両手で
娘が生まれて初めて描いた
たった一つの完璧な円
そのけなげで優しいカーブと
上気した横顔を思い描いて
私は静かに泣き続けた






以来娘のコンパスは引き出しの奥に仕舞われたままだけど…

文具店やスーパーマーケットの片隅に
澄まして整列しているその仲間を見つける度に
鋭く尖った足先が私めがけて一斉に伸びてくる

いいえ、コンパスはなくならない

あの日娘に与えてしまった痛みを
母として、母である限り、
この胸に深く刻み込んで生きるために
何度でも何度でも
私はその針に突かれなければならないから、

コンパスはこれからもこの世に存在し続けるのだ


自由詩 コンパス Copyright 夏美かをる 2014-06-30 05:29:52縦
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