人間の本質を露呈させるものとしての文学
yamadahifumi


 

 小説というのは科学の一種ではないか、という事を以前に書いた。今、もう少しその事を詳しく説明しておきたい。


 小説というのが科学の一種というのは、別にふざけて言っているわけではない。小説というのは、人間に関する科学の一つである。科学においては基本的に数量、あるいは形式のみが内容になるが、小説ーーあるいは文学、芸術に関してはその内在性、内面が問題になる。そしてその場合、その内在性は外在性(つまり形式)と一致する事を目的としている。わかりやすく言うと、「悲しい」という感情が自分の中にあると、それは詩の場合、言語の厳正な並びと完全に対応しなくてはならないという事だ。そして、この「悲しい」という自分の感情と、「悲しい」という言葉の意味とが必ずしも合致しないという事に芸術の難しさ、ないしは詩の存在理由があると言って良い。これはわかりにくいので、もう少し説明しよう。

 
 僕が言おうとしているのは、つまり簡単な事である。例えば、「私は悲しい」と僕のノートに書きつけたとする。だが、それは僕の「悲しい」という心を『表現』してはいない。それは単に事実を伝えただけで、それは僕の悲しみを『表現』してはいない。そして、この『表現』というものが芸術の生命である。トルストイが、「あなたはアンナ・カレーニナで何を伝えたかったのですか?」と聞かれて、トルストイがそれに答えて、「それを言おうとするなら、私はもう一度アンナ・カレーニナを最初から書かねばならない」と言ったという話がある。トルストイの言う所は正に正確に、芸術というものの本性を突いている。トルストイが言いたかったのは、つまりアンナ・カレーニナという作品の内在性はその全体の文体、その形式=つまり肉体と一致しているという事である。ここでは肉体の形と内面の形はぴったり一致している。だから、形を無視して、内面のみを抜き出したり、その逆をしようとしたりする事は不可能である。トルストイの伝えたい事は、アンナ・カレーニナという作品の全文章とぴったり一致している。だからこそ、トルストイはアンナ・カレーニナを書いたのである。これは芸術家からすれば当然の事だが、しかし、「この作品の著者の意図は何でしょう?」みたいな受験勉強にありがちなインチキ質問に当たり前のように回答している僕らはわかりにくいことである。著者の意図は、その作品の全文章である。もし、そうでないなら、何故、トルストイはアンナ・カレーニナを書いたのだろうか?。伝える、という事は肉を持つという事である。そして肉体を持つという事は文体を持つという事である。そしてそれにより始めて伝わるのだが、それを、『事実』として、意味として、例えば『作者は〇〇を伝えたかった』みたいな文章に簡略化すると、それは途端に嘘になってしまう。それは途端に伝わらなくなってしまう。だから、芸術家はその作品にあんなにも生命を込めて、それを描き出そうとする。なぜなら、それはその肉体そのものが内面と一致しているからである。これは芸術というものにとっては当然の事だが、読者から見れば、どのようにも軽く見る事ができる。そこで、色々な齟齬が起こる。それは例えば、『作品の解釈』などである。作品の解釈をするのは勝手だが、もし作者がそのように隠された意味を伝えたかったのなら、何故、それを最初から芸術として表現しなかったのか?という問題が残る。作品の背後に何か隠れたものを見ようとするのは、利口ぶった愚か者のする事だと僕は思っている。真の批評家は作品の肉体から、本質へとたどって昇っていく。しかし、それは隠された意味を発見する『解釈』とは似て非なるものである。解釈とは元々、知的な満足感を得たいある種の人々の身勝手な創作に過ぎない。


 芸術においては形式=内面である、みたいな事は実はもうとっくに言われ尽くしたことで、今更僕が言うことでもないが、しかし芸術というものを考えると、どうしてもそういう事を言う必要が出てくる。芸術は科学の一種だと僕は最初に言ったが、その意味をここでもう少し考えるなら、それは、内面に忠実であろうとする外在性の正確な配置とでも言えばいいだろうか。例えば、僕が月を見るとしよう。そしてこの時、僕は物凄く落ち込んで、辛い気持ちだったので、月が醜く歪んだ誰かの笑顔に見えたとしよう。すると、その時、僕は次のように書かなくてはならない。

 「僕が月を見上げると、それはまるで誰かの醜く歪んだ笑顔のようだった。僕は『クソッ』とつぶやいて、地面にツバを吐いてから、また歩き出した。」

 これがいい文章かどうかとはともかく、しかし、芸術とはこのように描かなくてはならない。描かなくてはならない、というのは、別に表現自体はなんでもいいのだが、しかし、それは徹底的に内面に忠実でなければならないという事だ。客観的に考えるなら、月は誰かの醜く歪んだ笑顔であるわけはない。科学においてはそれは間違いである。科学というのは感覚の学問であり、それは芸術とは持っている物指しが違う。それらは違う種類の物指しである。しかし、どっちがいい物指しという事もないのだ。もし月が緑に見えたら、君は「月は緑色だった」と書かなくてはならない。例え、君が誰かに「そんなわけあるか。月は黄色にきまっている」と言われたとしても、君はその自分の見たものを信じなければならない。そして、その時、君が見たものは君の内面を忠実に表しているはずである。だから、君がそういう描写をうまくする事ができれば、君の描写は芸術表現となるはずである。君はまず、その事を信じ無くてはならない。


 以上のような芸術論というのは、実はもう散々言われた事で、正直言ってパクリであるし、特に目新しくない。でも、まあ続けてみる事にしよう。芸術というのは基本的にこのようなものだと僕は思っている。一言で言うと、芸術とは内面の表現である。そしてそこに、肉体=(文体、あるいは絵画における色彩、彫刻における線、形などなど)が現れる事になる。芸術とは内面に忠実な科学的表現である。科学は僕達の主観を揺さぶり、客観妥当性をひたすら追求していくが、芸術はひたすらに僕らの主観性をはるかに押し広げて、そしてそれに肉、あるいは形を与えていく。二つは違うように見えるが、どちらも人間の持っている可能性の発露である事に代わりはない。


                        
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 最初、詩について少しだけ触れてみたが、今、小説という形式に触れてみよう。この形式は読む側からすると、詩よりも簡単だが、実は構造としては詩よりも難しい問題が眠っている。


 小説というものを一般に作るに際しては、例えばプロットとか登場人物とかが問題になる。では、文学とは何かというと、それがどのようなものかは未だによく分からない。どうやって芥川賞を取ればいいのか、そのノウハウもよくわからないし、何故、村上春樹がノーベル賞候補で、村上龍がそうじゃないのか、と言った事もその理由はよくはわからない。


 もちろん、そういう事は別に本質的な事ではないし、どうでもいいのだが。小説というものを僕はここ二ヶ月くらい考えあぐねているのだが、別にこれに明確な答えを与えたいわけではない。とにかく、様々視点からこれを見たり、切り裁いたり、また中を割って除いてみたり、そういう事ができればとりあえずはそれでいい。その内、僕も長大な『言語にとって美とは何か』みたいな文学論を書くかもしれないが、その予定は今の所なさそうだ。


 小説というもが科学の一種だと考えるなら、このようにも言う事ができる。つまりそれは、『人間の本質を発見する為に、人間に悲劇という一つの『門』をくぐらせる行為である』と。もちろん、これは象徴的な言い方なので、説明を要するだろう。


 昨日に書評を書いたミシェルウェルベックの『素粒子』でもいいが、そこでウェルベックは、ミシェル、ブリュノ、あるいはアナベルといった現代風の登場人物達に、徹底的な瞬間、彼らの本質が露出するその瞬間を導き出すために、彼らに様々な苦難を味わわせているようにも見える。そしてこの予測はそれほど的を外れていないだろう。例えば、ブリュノという登場人物の本質=根底が露出する、ある瞬間というのはある。それはブリュノがやっと巡りあった、真に愛する事のできる女性、クリスチヤーヌが病気により、下半身不随で車椅子姿になってしまう箇所にある。クリスチヤーヌがそのような状況になった時、ブリュノは『家に来いよ。これからは世話してあげるから』と男らしく誘ってやる。だが、しかしブリュノはその台詞を吐く時に、ほんの数十秒、ためらってしまったのだった。ブリュノは、それを言うのをほんのすこしばかり、ためらってしまったのだった。何故ためらうのかと言うと、当然、車椅子の女性の面倒を見るという事は、ブリュノにとって生涯の重みでもあるし、またそれは、散々性的快楽を求める事しかできなかったブリュノの『自由』を阻害する事でもある。著者がこのブリュノに、たった数十秒ためらわせる、これは怖ろしくむごたらしい行為だ。だが、それによって、快楽を、自分の幸福を求める現代人の醜さが一瞬だけ、閃光のように露わになる。そして、クリスチヤーヌは、この数十秒のためらいに、ブリュノの抱えている問題、そして自分自身が他人の重荷でしかないという事を察知する。そしてクリスチヤーヌは自殺してしまう。ブリュノは悲嘆にくれる。だが、もう全ては遅かったのだ。ほんの少しのためらいが全てを運命づけてしまった。


 ウェルベックが、登場人物をこのような悲劇にくぐらせる手つきというのは、真に恐ろしいものであるという事が少しは伝わったのではないかと思う。そして、人間がその本質=実存的なものが露出させるのは、その人間が悲劇をくぐった時に限る。そして、この人間はその悲劇をくぐる事により、その『意味』が明らかになる。例えば、シェイクスピアのロミオとジュリエットで、二人の愛を決定的に高める為に、シェイクスピアはわざと二人の家柄をライバル同士にさせる。こうして二人の愛は、制限を課されたものとなり、従ってこの二人の愛はより高められた事となる。僕がこういう事をあげつらって言いたいのは、つまるところ、小説家とうのは、単に物語を作ったり、面白おかしいお話を作ったりする人ではないという事である。また、それは形だけ『文学っぽい』、中身のない話を書く人ではない。例えば、中村文則みたいな作家は表面的には深刻だが、それはあくまでも、これまでの文学の形を踏襲しているだけで、僕には彼が人間の本質にその作品で触れられているとは思わない。だが、ウェルベックは触れている。ミシェルウェルベックはその作品で、人間を徹底的に拷問にかける事により、その存在=実存を露出させている。そういう意味で、彼の作品は成功している。しかし、これは小説家の『腕』云々という事ではなく、それよりももっと大切なのは、人間の本質、根本を理解しているか否か、という問題なのだ。そして今、どの分野でも、小手先の、技術だけのアーティストが多く、本質的なアーティストがほとんどいないように見えるのは、つまり、まず、作品というジグソーパズルを作るには、まずその絵柄が見えていなくてはならないという事に由来している。ジグソーパズルを作るには、まず全体の絵柄を知っていなければならない。そうでなければ、各種のピースには意味が無い。そしてこの一つ一つのピースは、それぞれの分野の技術的些事だったりする。例えば雑誌には、『他人と差をつけるギターテクニック』みたいなのがある。そして、それを一生懸命勉強して、実際差をつけても、それはただそれだけの事である。芸術家は、自分が何を表現しなければならないのか、その根底を知っていなければならない。それがジグソーパズルの全体の絵柄に匹敵している。だが、今は各種のピースについては人が教えてくれても、この全体の絵柄については誰も教えてくれないので、だから、芸術というのは今、どこか小器用でありながら同時に迷走しているように見えるのだ。そしてそれはプロとか素人とかの区別もない。ミシェルウェルベックのような作家は常に少数派だ。


 小説というのはだから、人間というのを、悲劇という名の遠心分離器にかけて、そしてその人間の本質、実存を露出させる技とも言える。通常、小説を書こうとする人間は、プロットの作り方とか登場人物の描き方などを考えるだろうが、実は、重要なのはそこではない。まず、作家は人間にたいするある種の観念、ある種の哲学的本質、真理、そのようなものを持っていなければならない。夏目漱石の『それから』で、代助が親友の妻と不倫し、そして社会から捨てられるのは、それがこの日本において、旧来の道徳を打ち破り、新しい人間となろうとする事がどうしても悲劇ならざるを得ない、その事を描こうとしたからだ、と言う事もできる。この時、漱石は単に、面白い話を書こうとしたのでもなければ、作家としての技量が優れていたのでもない。(優れてはいただろうが。)問題はそういう事ではなく、漱石とか、ドストエフスキーの作品の裏には、彼らの、社会や自分自身に対する徹底的な哲学的、あるいは社会的な認識があったという事だ。それが脈々と流れていたという事だ。今、小説を書く人間が他人の小説しか読んでいないとしたら、僕にはそれは滑稽な事に思える。一人の人間の真理の中にはあらゆるものが含まれている。そしてこの真理を探し出すには、その人間の生活の運動だけでは足りない。その時代の傾向、経済、歴史、物理、数学など、そういった様々なものに頼らなければならない。そして何よりもまず、自分自身の人生から学ばなければならない。人間がいかに愚かで惨めであるか、あるいはいかに崇高で美しいか、そういう事を人は生活の中で知らなければならない。そしてこんな事は当然、ノウハウとしては伝える事はできない。だが、そういうものがなければ、本当の意味で豊かな小説を書く事はできない。従って、ある傑作小説というのは常に、その作品を通じて世界に対して広がっている。それはそれを形作ったものを通し、あるいはその作品を構成した、その世界全体に対して開かれている。そしてつまらない作品は、文学という内部に閉じている。以上のような事は今、小説というものを考える上では大切な問題だと僕は思っている。だから、小説の書き方というのは基本的に誰かに教える事はできそうにないし、他人から教えられる事もできそうにない。またその具体的ノウハウはいくらでも転がっているし、それはいくらでも使用すればいい。だが、重要なのはそこではない。文学は世界に対して開かれているが、しかし、それを閉ざすのは一群の文学者やその愛好者であるとも言える。世界は広がっている。だからこそ、文学も広がっている。全てはまだ始まったばかりであり、そして文学も世界に対してまだ、一歩を踏み出したばかりなのだ。そういう気がする。


 とりあえずこの文学ーー芸術論はここで終わる事にする。またこの先、何か思いついたらこの手の事を書くかもしれない。が、とりあえずこれはここで終わる事にする。それでは。


散文(批評随筆小説等) 人間の本質を露呈させるものとしての文学 Copyright yamadahifumi 2014-06-10 13:30:44
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