迷いこんだ歯
草野春心
耳のなかから歯が一片こぼれてきた
それを拾い洗面所に行き鏡で自分の口のなかを見ると
欠けている歯はひとつもなかった
歯は依然わたしの手のなかにあった
歯は行く当てのない孤児のようにみえた
捨てるに忍びなく窓際のサボテンの鉢の横にそれを置き
しばらく眺めながら煙草を数本吸い古い音楽を聴いた
音楽は歯のかたちに欠けていたがほとんど気にはならなかった
午後の砂が少しずつ底に溜りやがて逆さにされた
一人、またひとりと 人が家に帰ってきた
疲れている者 健やかな者 狂いつつある者
だがそれら人々をわたしはどうしても家族だと思えない
というよりそれら人々はわたしをどうしても家族だと思っていない
夜がわたしの躯からあふれ やがて辺りを包む頃になっても
歯は依然 わたしの手のなかにだけあった