二人の遡行者—細川航「ビバーク」
春日線香

詩誌「雲雀料理」号外に掲載された細川航「ビバーク」について

僕のふたつのねがい、それはきみがいまこの瞬間か
らだの奥底から死にたくなること、そしてそのまま
に永遠くらい生きてほしいこと

ここには二つの方向が同居している。死への意識と、その死の意識が激しさを増したままで続くこと。つまり死の境界線を越える地点で立ち止まり、かろうじて生に留まることが願われている。二方向にぴんと張り詰めた葛藤の状態。「僕」が願い、「きみ」に向けられた言葉は、ある人間から別の人間に向けられたというよりは、一人の詩人の内部で交わされた独語と言ったほうが正しいだろう。

雪という言葉がうすみどりに透けていってきみの喉
がかわいて雨という言葉になる

雪は溶けて雨に変わる。ある状態からある状態への移行、その中心に詩人はいて、言葉を受け渡している。それも喉の渇きを感じながら。もっと直截に言うなら痛みを通して。

雪から雨という状態の変化に注目したい。雪解けは地上を流れる。その言葉の川を差配しているのが詩人であるとして、彼が感じている乾き……痛みとはどういうものなのか。それは詩の中で語られている。

言葉から自分を差し引けないそのさみしさ

自己を滅却する死の意識を持ちながらも、かろうじて生に留まって詩を歌うことが詩人の原理なのだとしたら、この「さみしさ」は引き受けなければならないものだ。両側から引かれて「さみしさ」の軋みを感じている詩人。二方向の力の向きに対して、彼はやがて変化を見せる。

君がきみを殺しても枯れない川を僕は夜どおし登って

引き裂かれた「君」と「きみ」の二人の緊張に支えられた言葉の川を、「僕」は登る。川を登るということはそれが流れてきた上流への、詩人の来し方を確かめる遡行の旅なのかもしれない。

そこで彼は鳥を見る。はばたいて飛び去った羽根の中に手紙を見つける。

わすれていたけど僕はこのてがみを好きだった
書いたあとにはしあわせな心地でねむった

「てがみ」の内容は開かれている。とはいえそれを書いたのはやはり詩人であって、どうやら幸せな眠りをもたらすものであったらしい。言葉の源流に立ち戻った詩人が見つけた幸福な記憶。引き裂かれた二つの半身を持つ詩人が「好きだった」という言葉の川の始原。

遡行の果てにこの地点を確認した詩人は、二つの方向に引き裂かれた半身と半身を和解させたように思える。

きみも、わけていてくれたんだとその日は思って 川辺で
ねむることにした

眠りの中に「さみしさ」は追いつけない。たとえそれが擬似的な死の状態であるにしても、次の歌が聞こえてくるまで、今はただ乾きを忘れて静かに眠ってほしい。


散文(批評随筆小説等) 二人の遡行者—細川航「ビバーク」 Copyright 春日線香 2014-05-08 04:09:07
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