小さな春のタチェット
竜野欠伸

気まぐれな嵐は
ときおり吹き荒れて
数え切れないほど
散り始める
桜の花びらが
舞い落ちては
ゆったりと流れる
どこかの運河の水面を
どこまでも薄紅色に
染めるように
この春は過ぎ去ろう
としていて

ちょうど晴れわたった
青空ひとつ
いつかの住み慣れた部屋には
褐色の厚紙でできた
搭がそびえたつ
引越しのダンボールの
荷造りは少しずつだけれど
たくさんの楽譜や
手作りのピエロの人形や
使い古されたフライパンやらも
少し残された
春の匂いにくるまれて
箱詰めにされている

ペールグリーンの
色彩の扉の向こうへと
多くの荷物が
いつのまにか
運ばれていく
クレーンで
宙吊りになって
持ち込まれた
彼女のグランドピアノからは
華やいだ音色が
奏でられて
きっとどこかの運河で
おびただしい桜の花びらが
敷き詰められながら
浮かんでは揺らいでいる
ひとときを想う

散り逝く桜の
花びらが心舞うように
今夜は春の終わりを告げる
幻となって
ピアノの鍵盤からは
澄みきった風の音色がしてくる
新緑に萌える
初夏の前奏曲を聴くのは
いつになるのだろうか

すでに郵便局への転居届けは
近所のポストへと
確かに投函されたはずで
旧住所宛ての
電気料金の明細書が
隣町のこの住まいへと届く

まるで
まだ見知らぬ場所へと
僕と旅立つ前夜の
静かな祈りみたいに
とてもささやかな
春の夜空には
いくつもの灯りが
穏やかに明るく点っている
先日までの家路が
記されていたはずの地図には
小さな春の遠い追憶が
そっと閉じ込められている


自由詩 小さな春のタチェット Copyright 竜野欠伸 2014-04-30 21:58:48
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彼女に捧げる愛と感謝の詩集