ありうべからざる色彩
佐々宝砂
――油膜のような色なんだ、赤にも緑にも見える。
Tはテーブルの上のカップに視線を注いだまま
落ち着かない様子で呟き口に手を当てる
僕は僕で
冠雪して間もない山なみを窓ガラス越しに見ながら
Tの父親のことを思い出していた
Tの父親が死んだのは
フジサンロクオームナク と
警察があの山の向こうで大騒ぎしていた
そのすこしばかりあとのことで
老いた百姓の死は話題にのぼらなかった
誰が見ても自殺としか考えようのない状況でもあった
血みどろの風呂場に倒れたTの父親は
右手にカミソリを握りしめ
左手に数本の深い切り傷
胸のポケットには息子であるTに宛てた遺書
しかしその遺書の中身は全然読めなかった
白い便箋にべっとりとしみついた
赤にも緑にもみえる
油膜のような
その色彩。
父親を亡くしたTは酪農をやめるつもりで
乳牛を売り払おうとした
しかし一頭もまともな値で売れなかった
牛たちはみな痩せ細り
やっとのことで絞り出す乳には
いつも必ず一筋の血が混じっていたのだ
その血はもしかしたら
緑にもみえたかもしれない
――いっそ土地を売ってしまったらどうだい。
――そんなことしたら親父が化けて出るさ。
Tはそれでも少しだけ笑った
痩せた頬は青ざめて
光か何かの加減か
ときおり緑のようにもみえるのだった
土曜の午後
僕はまたTの玄関をノックした
返事がなかった
チャイムを鳴らしたが同じで
おかしいなと思いながらノブをまわすと
するりと開いた
三和土はぎらぎら光る油膜のようなものに覆われ
赤緑に染まった靴が散乱する中央に
わけのわからない塊があった
赤 ピンク 白 薄い紺 灰がかった緑
いろんな色した内臓の上に
下半分つぶれたTの顔がのっかって
見開いた目がぎょろりとこちらを向いている
肉塊の下には
スニーカーを履いた両足が残っていて
肉塊の両脇からは
黒いシャツを着た両腕が突き出ていて
その姿は
恐ろしく寸詰まりの胴と
不釣り合いに長い腕と
ばかに大きすぎる足とをもった
異形の生物のようで
空き缶を真上から踏みつけて
うまいこと小さくつぶしたみたいに
Tは小さくつぶれていたのだ
僕は妙に冷静な気分で
携帯電話で警察に連絡した
パトカーから降りてきた警察官に指摘されて
はじめて僕は
自分の胸が吐瀉物で汚れていることに気づいた
僕の吐瀉物は赤にも緑にもみえて
僕はついに失神した
赤と緑。
いや違う。あれは赤でも緑でもない。
あれはこの世の色でない。
ここにあるべき色彩ではない。
フジサンロクオームナク と
あの山の向こうで警察が騒いでいたころ
僕とTは樹海の入口で
奇妙な石を拾った
拳くらいの大きさで金属光沢があり
赤にも緑にもみえた
その石を持ち帰ったのはTだったが
Tは死んだし
僕もそんな石を持っていたくはない
しかし僕の身体は
光の加減で妙な色にみえるのだ
僕の尿も大便も汗も
油膜のようなぎらぎらした
赤でも緑でもない色彩に汚染されて
だから僕は
あの石を
**ダムに放り込んできた
なに水道の味は変わらない
あれは完璧に無味無臭さ
単にすこしばかり違う色がみえるだけだよ
窓のそと白い山のいただきに
ありうべからざる色彩の巨人が立つ
水掻きのある指
歪んだプロポーション
人類にかけらの憐憫も抱かない
両生類のようなあの目
もう じきに
君にもみえるようになるだろう。
参考文献 『魔道書ネクロノミコン』(学研)
ラヴクラフト全集(東京創元社)他
小詩集"Poem room of Arkham house"より
初出・同人誌「ピクニック」第2号
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Poem room of Arkham house