【小品】囚われ
こうだたけみ

 急な坂道の途中で立ち止まる人のように、左半身を下にして斜めに傾いでいる男と目が合った。あっと思って目を伏せたがもう遅い。空も電柱も道路もぐるりと回転して、私が斜めになっていた。
「あなた、斜めですね」
 男は、私を犠牲にすることで真っ直ぐに立てるようになった男は、自らの不幸を手渡す人を見つけてほくそえむような悪い顔をした。私が何も答えられないことを確認すると、さらに満足げな笑みを浮かべてゆっくりと背を向ける。
 待って! 何か忘れていることはないか、私は考えを巡らせる。両手に提げた買い物袋の中身はなんだっけ? ナマものなんて買っていなかったかしら。牛乳と納豆が入っているのは確かだけれど、もう日は暮れたし夏場でもないし、少しばかり冷蔵庫に入れるのが遅くなっても問題はない。だけど、だけどあの男はどのくらいここに斜めに立っていたのだろう。ここは住宅街の真ん中だから夜中以外は多少なりとも人通りはある。あんなに冷静でいられるところを見ると、一時間も待たずに私と出会ったに違いない。だとすれば、私だってそう待たなくても次の人に代わってもらえるかもしれない。でも待って。何か、何か忘れていることはない?
 私はふいに思い出す。そして、昔々教わったおまじないの言葉を口にした。
「いいえ、私は垂直に落下する」
 世界がさっきとは逆回転して、私は元通り真っ直ぐに立っていた。私に背を向けて歩き出していた男は、今度は可哀想なことに、腰まで地面に垂直にめり込んでいた。
 危機を脱したことにほっとして、でも次の瞬間、後頭部の右半分が痺れるような感覚に襲われる。私はおまじないを教えてもらったが、その続きを知らないことに気がついたのだ。そうだ、もう二度とあの男と目を合わせてはいけない。私は足早に男の脇をすり抜けた。
 その道は、私のアパートまで続いている道だった。ここからはまだアパートは見えないが、私は両手の荷物を持ち直し、目的地を見据えるつもりで顔を上げた。すると、私の帰路に三メートルほどの間隔で、どこまでもあの男がめり込んでいるのを見てしまった。
「やあ」
 私が横をすり抜けるたびに、男は決まって親しげに話しかけてきた。けれども振り向いてはいけない。目を合わせてはいけない。私は幾人ものあの男の横をすり抜けて、必死になってアパートをめざして歩いていく。
 手摺に塗ったぼんやりした色のペンキがところどころ剥がれて赤く錆びついている階段を上り、震える手で鍵を取り出し、いつもの数十倍の時間をかけて開けたドアの隙間に滑り込む。すぐに内側から鍵をかけチェーンまでしっかりとめる。もうここまで来れば大丈夫。玄関に買い物袋をほっぽり出すと、部屋の明かりをつけて、昼間から開けたままだったカーテンを閉めようと窓辺に寄る。
 そこで、男と目が合った。
 アパートの前の道路にこちら向きにめり込んだ男が、二階のこの部屋の窓を見上げて右手を挙げている。
「やあ」
 私はもう、あの男から目を離せない。



散文(批評随筆小説等) 【小品】囚われ Copyright こうだたけみ 2014-04-08 15:43:26
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